心のベクトル


 私たちが暮らす現代社会は、物質的には恵まれて豊かだが、精神的な蔓では、豊かかどうか疑問に思うことがある。日々の生活の中では、仕事の慌ただしさなどから自分では気づかないないうちに心労が重なっていることが多い。都会では、隣人との付き合いが殆どなく人間関係が乏しいのもストレスの要因かもしれない。「向こう三軒両隣り」の付き合いがあった昔の貧しかった頃の方が人々との触れ合いも多く、精神的な蔓では豊かだったのかも知れない。

 歳の瀬が押し迫ったある寒い日、アジア圏の留学生より一本の相談電話が入った。大学生の彼は、日夜一生懸命勉学に励んでいるが、ふとしたことから一ヶ月程前、友人たちと酒を飲み、初めて風俗店に立ち寄った。その日以来、自分は、AIDSに感染したのではないかと心配で食事も喉を帳らない状態だ。体重は一週間で2キロ落ちた。泌尿器科で受診したが、抗体ができるまで6〜8週間かかるため検査は3ヶ月後になる。それまで毎日が地獄のようだと言う。もし感染が確定したら自殺するつもりで、既に遺書も用意したらしい。一人っ子の彼は親からの期待が大きく、幼い頃から英才教育を受け日本に留学した。あと一年で卒業だが、感染したかもしれないという不安と焦燥から自分で自分を責める毎日。彼の国では、この病気に対する知識不足と偏見により差腹が激しい。家族とは頻繁に連絡を取っているが、自国での事情を考えると身内に迷惑がかかるのでとても打ち明けられないとのこと。

 相談電話で深刻な問題にぶつかったとき、相談員はまず相談者の気持ちを和らげることを念頭において対応する。特に、自殺願望を持っている場合は、安易な激励や慰謝を避け、冷静なやりとりを心掛けねばならない。家族や友人に打ち明けられない悩みも、電話相談では母国語であること、両者の顔や名前がわからないので本音で相談できる利点を活かし、またこの相談者のように自殺を仄めかすような場合にも最悪の事態を避けるように尽力している。今回の留学生も初めは涙声でかなり沈んだ様子だったが、たとえ検査で陽性反応が出たとしても、それが死に直結するわけではなく、他の慢性病と同様に適切な治療を受ければ人生設計を変更する必要はないことを伝えると安堵の様子を示し、さらに「この3ヶ月間、楽しく過ごすのも落ち込んで過ごすのも時間が過ぎるのは同じなのだから、くよくよしないでクリスマス気分に浸ってみては」とのアドバイスで結ぶと、気持ちが少しづつ打ち解けだいぶ楽になったようだった。最後は、3ヵ月後に検査を受けたらまた報告すると約束して、帳話を終えた。

 筆者も以前、4年間の海外生活を終えた直後に痰に螓が混じった。知人が結核で療養中だったこと、現地では邦人家庭に出入りしていた現地人からの感染がしばしばあったことから、結核が疑われた。幸いに風邪による喉の炎症だったが検査結旺が出るまでは憂慮にかられたものだった。この若者も検査の結旺が出るまでは不安は去らないであろう。しかし人間の思考はその問題の焦点の置き方や考え方一つでマイナスにもプラスにも向かう。この相談者も母国語での助言とHIVに関しての正しい知識を得て少しでも前向きな考え方に方向転換できたのではと思う。悩む相手の立場を真剣に受け止め、一人ひとりの声に耳を傾け、誠心誠意これからも日々の相談業務に努めていきたい。(センター東京 T)◆◆◆

(AMDA国際医療情報センター NEWSLETTER NO.55より)


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