AMDA国際医療情報センター
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小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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 母は一か月も栗山の家にいて僕を放さないという祖父と祖母と僕が思い込んでいた祖母チノを説得してくれた。母と僕を乗せた汽車が苫小牧に向かって栗山の停車場を出るとき、母と僕は席にすわり、窓をあけて祖母と親戚のおばさんの顔を見た。列車の汽笛で母は深々と一礼し、祖母チノは僕の手を握って離そうとせず、ゆっくり動き出した汽車に合わせるように大きな声で僕の名前を呼びながらホームを走った。チノという女性は本当の孫ではないのに本当にかわいがってくれたし、叱ってもくれた。やはり祖母にちがいない。こうして東京に出てくるにあたり、母は祖父、祖母とひとつの約束をしていた。夏休み、冬休みは僕を栗山に返すということである。だから僕は祖父が亡くなる大学1年までずっと東京と栗山を往復していた。東京では母が必死に働き、僕は昼間、学から帰ると母の実家で母の帰りを待つという生活をしていた。こどもにとってはつらい生活だったが、それでも学べることはあった。僕が母といっしょのときと僕が北海道から出てきた祖父といっしょのときではデパートの店員の態度がちがうこと、そして東京の生活と栗山に戻った時の生活では僕に対する人の態度がまったくちがうことだ。人の態度なんてこんなものである。
そういう態度は人間としてとってはならないということを学んだ。
 父は相変わらず愛人らしい女といっしょにいて月に一回ぐらい現れた。小学校4年のとき、家といっても四畳半とちょっとのところに帰ったら見たこともない幼稚園ぐらいのこどもがいた。母は友達のこどもを預かったと僕に説明したが、直感的に父と関係があるのだなと思った。父の愛人がこどもを産むので上のこどもを預かったのだ。その女性はけっきょく父のこどもを3人産んだ。僕から見ると母のちがう兄弟というわけだが、その上に預かったその子がいる。その子は父とはちがう別の男性のこどもなのだが、彼とは今でも年賀状のやりとりをする間柄だ。父の乱行は女だけではなかった。祖父のまねをして商売をしようとするのだが、お人好しで祖父ほど厳しく商売に臨まない、しかも虚言癖があり、何をしていたのかは僕にもわからない。僕のころは戦後のベビーブームで私立中学校が公立よりもよくなってきた時代だった。僕も私立中学を受験しようと今はない日本進学教室というところに日曜のたびに通った。今では考えられないが、当時通っていた公立の小学校では私学の面接試験の模擬試験などやっていた。当時の担任の先生に「君のお父さんの仕事は何ですか?」と尋ねられた。僕は母から聞いていた通りに話した。するとその女性教諭が怒り出し、君はうそつきだと僕に言った。母はいろいろなメンツを考え、僕に話したこととはちがうストーリーを担任に話していたのだろう。これについては母を責めることは一切言わなかった。担任は恨んだ。僕が嘘を言ったと決めつけたこと、それをクラスのみんなの前で言ったこと、世の中には言いたくても言えないことがあるということにも気がつかなかったことだ。だから今、僕は患者がたとえ嘘かなと思うことを言っても責めないし、決めつけない。たとえそれが本当に嘘だとしても嘘を口から話さざるをえないこども、患者の気持ちとその背景に気がついてあげなくてはならない。まだまだあるが、この先生は反面教師としてりっぱな先生だったわけだ。そんなこんなで僕の中学受験はみごとに失敗した。高校受験も失敗したが、共通点があって試験の当日になると突然40度近い熱が出てふらふらになってしまう。過緊張だったのか母の期待にそおうとしたのかはわからないが母の親戚一同からはストレスに弱いこどもという印象を持たれたにちがいない。
 中学に通い始めた1年のとき、ある日、母が友人と建てた大森のアパートに帰ると母が泣いていた。父が詐欺を働いてその債権者という人たちが後で来るという。やってきた連中はいかにも日陰の生活をしていますという連中でアパートを取り上げると母を脅かし、僕はそれを同じ部屋の中で聞いていた。彼らが帰った時に母にいっしょに生活していないのに取られるわけがない、父は早く離婚するようにと母にせっついた。早くおとなになって母の相談相手になりたかった。けっきょく母が離婚したのは僕が高校生のころだった。母なりにあんな父親でも愛していたのだと後になって確信したことがあって母にはかわいそうなことを言ったと思った。実はこの債権者という連中こそが父をだましていた連中だったのだが、父は人だけは良かったようでだまされて最後は自分が詐欺師にされてしまうということを繰り返した。最後に詐欺で室蘭の刑務所から桜のマークの付いた封書が僕に送られてきたときは僕はもう大和市立病院の外科の医長だった。祖父が亡くなり、保釈金の要求なども祖父にかわって僕に来るようになったが、僕は心を鬼にしてすべて断った。思えば中学、高校のころは暗いこどもだった。クラスメートから見たら勉強ばかりしているいやな奴だったにちがいない。父が詐欺を働いて刑務所に入っているなど人に言えるわけもなく、将来北海道のあの父親をいじめて卑屈にさせたあそこにも戻りたくないと思っていたので頼るのは自分だけ。自分の力で生きていかねばならない。必死で勉強した。僕がいやなのは僕の経歴、高校から慶応というのを見てきっとお坊ちゃんで育ったのだろうなと思われることだった。みんな祖父が授業料を出してくれた。父のことがあり、一流の会社を受けに行ってもきっと家族を調べられたら合格できないと思い、弁護士か医者になろうと決心したのが高校2年のころ。本当に必死で勉強した。弁護士は大学を卒業してもなれるとは限らない、医者なら医学部を卒業したらなれる。医者に絞って勉強をしたがもとから文科系の頭、つらかった。僕が医者になろうと思ったのはこんな理由で人を助けたいなんて崇高なものはみじんもなかった。ただ自分が助かりたかっただけ。高校3年の秋ごろ、北海道の祖父が突然愛人のひとりといっしょに上京してきた。僕に会いたいという。新橋のホテルの一室で会ったとき、開口一番、「手紙で知ったが医者になることは絶対に許さないし、金も出さない、経済学部に行き、卒業したら栗山に戻って自分の跡を継ぐように、そのためにお前を養子にしたい、おっかさんにはお前を養育した費用として二千万を渡す」こう言われた。まだ高校3年生、血が頭に上った。「もしそう思うならどうして今までほおっておいたのか、生活に苦しいことも知っていたはずなのに。あなたが今まで作り上げてきたものは僕の手ですべてぶち壊してやる」と叫んだ。皆が怖がるほどのワンマンだった祖父だが、そのとき静かに笑いながらこう言った。「お前に壊されるなら本望だなや。」そして母のほうを向いてこう続けた。「お前の父親は梶原重之助というんだろう?」。嫁入りするずっと前に父親は亡くなっていたので母はびっくりして「おとうさん、どうして父の名前を知っているのですか?」と尋ねた。「実は俺が日の出の勢いで商売を始めたころ、神戸から来たという商人に損をさせられたことがあった。それが梶原重之助でお前が嫁いでくるときにすぐに気がついた。今まで黙っていたが米幸には俺とお前の父親の血が流れている。商売人として絶対に成功するだろうから栗山によこしてくれ」、そういう祖父の言葉に冷静さを取り戻したが、けっきょくけんか別れしたように思う。祖父は帰って行ったがこれが永久の別れになった。半年後、札幌の斗南病院で胃がんで亡くなった。僕が呼ばれてかけつけたときにはもう意識がなかった。きっと自分の体調の悪さに気がついて必死の思いで東京までやってきたのだろう。そういう年寄りに僕はかわいそうなことをしてしまった。今でも胸がめつけられる。僕は首尾よく医者になることができた。もう自分の過去も隠す必要がない。それでも世の中には自分がしたことではなく、ただそこに生まれたというだけでいわれなき差別を受けている人たちがいる、日本人でも外国人でも。それに目をつぶってしまうことは僕にとっては今まで生きてきた自分を否定することなのです。だから僕は確信犯だ。いつだったか娘と息子にこの話を長々と話した。すると娘が一言、「お父さん、それって自慢?」と言った。
 祖父が亡くなるとき、祖父の事業を引き継ぐ連中から病室で陰湿ないやがらせを受けた。お前も金がほしくてきたならこれでも持って帰れと汚物をぶつけられたこともあった。危篤になってから亡くなるまでの一週間、あまりの精神的つらさに耐えかねて一度東京の戻ってくるほどだった。葬式ではお焼香の順位をずっと後に下げられ、すれちがった祖父の妹には肘鉄を食らわされた。新聞ではその存在を無視された。いま、ごくたまに栗山に戻ると夕張炭鉱は閉山となってあの一帯過疎の町となり、昼間に人を見つけるのもむずかしい。これでは祖父の残した酒造会社も従業員の確保さえむずかしいにちがいない。つい先日1時間だけ栗山に寄った時に親しい親戚の目上のおじが言った。「あんた、ここに戻ってこなくてほんとによかったさ、いまは大変だよ」。そうかもしれない。
  • 2011/8/12 16:37
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 しかしどんなに複雑な人間関係があろうと曲がっていったのは本人のせいだというのが僕の考えだ。仕事ができないのに女遊びだけは祖父に負けず劣らずだったらしい。親戚にいじめられて屈折していく父を見て女中頭のおばばという女性が身を挺して家の中で守ってくれた。中学生になったときにおばばの亡くなったことを知り、室蘭の本輪西に住んでいたおばばの息子さんの家を訪ねたとき、息子さんが「母さんは実の子供の俺より、人のこどものあんたの父さんのほうがかわいかったんだもんねえ」と言ってくれたことがあった。ほんとにその通りだった。僕もおばばにすごくかわいがってもらった。
 父は小樽の国立大学に進学した。数学が一題もできなかったが、祖父の力で入れてもらったと聞いたことがあるが、ひょっとしたら昔の田舎の国立大学ってこんなこともあったのかもしれない。父は小樽では祖父の姉が嫁いでいた池田製菓というお菓子屋に下宿していた。池田製菓のバンビキャラメルといえば僕の世代、北海道で育った人なら古谷のスキーキャラメルと同じくらいよく知っている。その池田製菓に神戸から疎開してきた僕の母が働いていた。どういう出会いか知らないが、二人は昭和23年に結婚し24年に僕が生まれた。僕が生まれても父の女遊びはやまなかったらしい。亡くなった母に聞くと冬の夜、帰ってこない自分の亭主を探して来いと舅、姑に言われ、やっと歩けるようになった僕の手を引いて雪の降りしきる町の飲み屋を一軒一軒訪ねたそうだ。たぶん母はまだ23歳にならなかったころだろう。父が帰ってきて母と言い争い、母を殴ったことは鮮明に覚えている。母は泣いて隣の部屋に逃げ、父は僕の手をひっぱり「米幸、いっしょに寝よう」と言ったが、父のその手を無言で振り払い、隣の部屋の母のところに走って行ったら母がしっかり抱きしめてくれた。生前、母にこの話をしたら「ほんとに覚えているの? あんた、まだ2歳になっていなかったころよ」と言われた。だから女性にふられても腹がたっても生まれて62年、女性を殴ったことはない。この話を娘が高校生のころだったか話したら「うそつき、お父さん、小学校のころによくぶったじゃん」と言われた。よく考えてみたらたしかに中学受験のころ、娘の勉強を見ていてそういうこともままあった。娘だけは例外であった。あれは愛のむちと言っても本人は納得しないだろう。その娘もことしから大和市の隣の市立病院の研修医をしている。浪人も留年もしなかったのはいいけど、まだ24歳の社会経験で医者としてやっていけるのだろうか。いつも心配している。
 父はあるとき急に僕の目の前からいなくなった。あとから知ったけど愛人といっしょに東京に逃げたのだ。母の姿もあるとき見えなくなった。夫が愛人といなくなり、大家族で住んでいる栗山にいられなくなり、東京に出てきていた実家を頼って出て行ったのだ。後から聞いた話では母方の祖母に「あそこに置いておけば米幸はお金で困ることはない。だから置いてこい。いっしょに連れてくることは許さない」と強く念押しされたということだ。母が1月に亡くなって遺品を整理していたら母と栗山の親族との手紙のやりとりがたくさん出てきた。その中に「こどもがお母さん、どこに行ったの?と尋ねて困ります。こんな答えられない。だからお母さんは病気で入院していて今は会えないけど、ボクもちゃんとごはん食べて元気にしていないと入院してしまうし、お母さんが悲しむよ」って話しているという手紙があった。こどもとは僕のことだ。それから小学校3年になるときに母が迎えにくるときまで僕はひとりで栗山にいた。祖父や祖母が僕の教育のためにつけてくれた教育係を兼ねた女中さんと月に一回、東京の母にあてて葉書を書いた。この葉書も母の遺品の中から出てきた。大切に持っていてくれたにちがいない。だから僕は恥ずかしいが涙もろい。
  • 2011/8/12 16:36
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バンコックに着いたらすごいスコール、経済発展で新車が多くなったのにきのうはコンドミニアムまで古いタクシーに乗った。途中で右の肩に冷たさを感じてみたら水滴が落ちてくる。よく見たらタクシーの内側が雨に濡れていた。ドル安の関係で円とバーツの関係も若干円高に振れており、1万円を市内の両替所で交換したら1万円が3800バーツを超えていた。
 昼からバンコックの病院に行き、夕方に友達と会う。それまでの時間、バンコックにいる時間のある間にいつもは書けないことを書いておこうと思う。
 僕の自分史だ。外国人医療への取り組みから僕のことを人権の闘士と思い込んでいる人たちがいる。過大な評価は困る。本当は適当が大好きといういいかげんな奴です。ここまでは前置き。

 僕が生まれた北海道の夕張郡栗山町というのは財政破たんで一躍有名になった夕張市の隣町で、夕張市は山の中だが、栗山町は石狩平野の終わるところにある。町の東には夕張山脈、西は石狩川第一の支流夕張川が流れ、途中雨煙別川などが合流し日本海に続いていく。
 国鉄室蘭線とジーゼルカーで運転されていた夕張鉄道が交わるところで、夕鉄に乗ると野幌操車場までジーゼルカー、そこからバスに乗り換え、札幌大通り公園まで1時間ちょっとだった気がする。僕の思い出がすべて詰まった文字通り僕の心のふるさとだ。産業といえば祖父が経営する酒造会社にコンクリートをつくる会社、保険代理店などを務める会社など・・要するに祖父の息のかかった会社ばっかりというわけだ。保育園や小学校の低学年のころに友達の家に行くと僕を迎えてとまどったという表情をする家と明らかに来てもらって迷惑という態度の家があった。きっと厳しい経営もしていたことだろう、祖父を恨む人もいたにちがいない。その町を牛耳っているドンの孫がやってきたのだから複雑な気持ちであったにちがいない。言葉には出されなくても歓迎されていないことはすぐに子ども心にもわかる。家の中の貧しさもわかる。自分とちがう人たちがいるのだなと強く思った。僕の父方の一族は明治の終わりに新潟県の刈羽郡西山村や長岡、柏崎、出雲崎にちらばっていた一族がリーダーである祖父に率いられて集団で北海道に渡ってきた。おかげで僕も小さいころからよく新潟の親戚を訪ねる旅に連れて行かれた。長岡の薬局に嫁いだ祖父の怖い姉の家や新保というところに行った記憶がある。この一族は大きく小林と田中という2つのグループから成り立っていてもともとは親戚らしいのだが、北海道に渡ったのちに同族の中での結婚が何組もあり、誰に聞いて一族の系譜を書いてもわからないところが山ほどある。僕は実は田中の系統なのだが、祖父が小林の側に養子に行ったため小林姓なのである。祖父は英雄色を好むを地で行くような人で妾がいっときは7人もいたという。携帯電話もない時代だったからできたのだろう。本妻もいれたら8人の女性に生まれた子供は妾に生まれた僕の父だけだった。最後の妾である山川という女性に自分に女の子が生まれたがすぐに死んでしまったと本人の口から聴いたことがある。たぶん僕が19歳のころだと思うが真偽のほどはわからない。父の本当の母親という人に会ったことが一回だけある。大学生になりたてのころ、ある理由で探して会わざるを得なくなり、日高の鵡川という町まで父と行った。もとは芸者をしていたその人は祖父のことをある人から「内地からときどきやってくる商人だと紹介された」と言っていた。一度は生後すぐに本妻に引き渡した息子を取り戻そうと栗山の家に行き、首尾よく赤ちゃんの父を連れ出したが気がついた家の使用人に駅で取り押さえられ、箒でさんざんたたかれたらしい。僕から見たら実の祖母になるわけだがその人の妹の孫、すなわち僕のはとこにあたる女性は札幌出身のちょっとは売れていた歌手だった。本人と話したことはないがお母様と話したことは何回かある。父もそのとき実の母であるその女性と違和感なく話していて、話の内容も僕の知らない人や知らないことばかりで父と実母の間に比較的密な連絡があるのだなと初めて知った。父は生後数日で祖父の本妻に引き取られた。ところが世間体が悪いと思ったのだろう、祖父は自分の戸籍には入れずに兄弟の戸籍に入れてくれるように頼みこみ、新潟で小学校の校長をしていた義理の弟には断られたものの、新保というところにいた兄の戸籍に入れて、そこから養子を迎えた形で自分の戸籍に入れた。一族が集まって酒造会社を経営し、町をしきっていたところに後継ぎの有力候補として突然出現した妾のこどもに親戚の目がやさしいわけがない。父は複雑な人間関係をバックにしだいに曲った人間になっていったという。
  • 2011/8/12 16:33
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いまは成田空港、久しぶりに外国人医療と関係のないことを書きたくなった。暑いときにこれからバンコック、先方では親友のワンチャイ先生はじめ看護師さんたちがいつも暖かく迎えてくれる。いま気がついたが出かける前にあまりにも忙しかったせいか、ワンチャイ先生には一昨日電話しておいたものの、看護師さんたちには電話もメールもしていなかった。連絡すると看護師さん10人ぐらいといつごはんを食べるという話になり、段々僕の自由時間がなくなっていく。ひとり、カラオケ好きの看護師がいていつも誘われる。私たち、日本語の歌うたうから先生、タイの歌、歌うのよってできるわけない。タイの歌についてはものすごく詳しいが、日本でいう陰と陽の音階がまじりあって、いい気持ちで歌っていると突然階段の板がはずれたように歌を踏み外す。およそ西洋音楽に慣れ親しんだ人には歌えない。旅はいつも飛行機もホテルも自分で手配する。昔々、小学校の三年のときに夏休み、冬休みは祖父と祖母のいる北海道の田舎の家に帰るという約束で東京に出てきた。正確に言うと出てこざるをえなかった。小学生のときは飛行機で往復したり、親戚の目上の人に連れられて青函連絡船を乗り継いで列車で往復した。21時間近くかかった。中学生になってからは自分の乗る列車を時刻表で選び、朝の7時に駅にならび、特急券を買った。ボストンバッグを抱えて一人で往復していた。そのころから旅好きだ。暇があると時刻表を買って読んだ。高校生のときにはワンダーフォーゲル部に入り、山を歩き、あっち行く旅もこっち行く旅も自分たちで旅程を立てた。今の飛行機好きも旅好きも小学生のころから始まっていたのかもしれな。いま62歳、いつまで元気に旅することができるだろう? ときどき日本人の高齢の患者に言われる。先生、いいわねえ、またバンコック? 一度連れて行ってよ。先生と行けば安心だしさ、あともう一回死ぬまでに旅行したいわ。僕と行くと高いよ、チケット高いときしか休み取れないからというと、いいのよ、すこし高くたってさ、もう旅行者のツアーには入れないし、お金残したってしょうがないもん。というわけでいま、真剣に考えている。
  • 2011/8/11 8:59
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あああ、忙しい。夏季休暇の前のためか、ほんとに忙しい。いつも昼近くにやってきて待っているうちに時間がないとそわそわしだすフィリピン人男性、きょうは朝早くやってきた。彼は相鉄線相模大塚の駅近くでフィリピン料理のレストランを経営している。最近こないねードク と言うので嫌いになって行かないと勘違いされてはいけないので、土曜の夜はいつも世田谷の母の家に管理に行くので行けないけどごめんねと話しておいた。最近、やせたよという彼、おなかを触ってもちっともやせたとは思えない。何かのまちがいではないだろうか。きのう、小児科は南アジアデイだった。インド人にパキスタン人の兄弟、英語を話す人たちが来るとやはりほっとする。今度の9月11日の大和市医師会主催の在住外国人の健康の集いというか健康フェスタというか・・・外国人の人たちの希望で日本料理も教えてほしいということになった。講師は・・・というと僕の日本人の患者の中に学校の調理にずっと勤務していたという高齢の方がいる。以前にこの方が今回の会場として予約した同じ場所で肉料理の講習をしたというのを聞いていたのですぐに自宅に電話、やだわ、先生、私よりほかに適切な人いるでしょ?と言われたが、まんざらではない雰囲気を僕が見逃すわけがない。押し通してお願いをした。僕の狙いはついでに彼女のゲートボール仲間の高齢者の方にもわんさか来てもらってほぼマンツーマンで指導をしてもらうこと、そうすりゃ次からどこかで会ったときに挨拶し始めるだろう、外国人女性の孤独感も消えるだろうし、高齢者の方々の楽しみも増えるかも。いつも診察しながらの世間話は単なるおしゃべり好きと思っている人たちもいるようだが、実はそうじゃない。こんな時のための情報収集なのである。
  • 2011/8/9 15:19
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あと二日診察したら夏季休暇、早くあと二日たちますように。外国人の患者にいつからいつまでお休みだから来ないようにね、知り合いにも伝えておいてねと話しておく。留守番電話が困ったことに時間的に二カ国語ぐらいしか入らない。朝からフィリピン人の患者が多い。初診の患者、持ってきた国保の保険証の有効期限が切れている。やむをえず、役所に問い合わせして新しい保険証がまちがいなくあることを確認してから診察。頭痛とのことだが、毎日バッファリンを二回内服しているとのこと、片頭痛でもないし、緊張性頭痛でもなさそう。血圧が高くなりそうな年齢ではないが、念のために測定したがまったく正常。たぶん鎮痛剤の副作用としての頭痛ではないだろうかと推察。頭痛があってもすぐには鎮痛剤を内服せずにがまんしてみるように話して帰した。昼前になってクリニックのフィリピン人通訳から患者のひとりがきょう誕生日でみんなでパーティをするから先生にも来てほしいと電話があったと知らされた。行くといったんは答えたが、きのうおとといとバソコンのセッティングなどで夜遅くまで頭を抱えていたのできょうは朝から軽い頭痛、できれば家で休みたい。声かけてもらえたのはうれしいけど・・と事情を話してお断りした。朝から夕方までがん検診の申し込みが多い。外国人の方々にこういう情報がちゃんと伝わっているのかあらためて心配になった。
  • 2011/8/8 18:11
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きのう、1時に診察を終えてから大和在住の外国人の方数人にクリニックに来てもらった。9月11日日曜日に予定した大和市医師会主催の市内在住外国人の方のための医療の話、ことしは何をテーマにしようかという打ち合わせだ。あまり僕の意見を先に言うのはやめようと思った。こちらがニーズがあると思っても先方はそう思っていないこともあるからだ。聞きたい話の一番は放射能の話、健康被害がどうかということだが、たしかに小さいお子さんを抱える人が多く、不安に思っていることは表情から手に取るようにわかる。実は大和市では市内の学校、幼稚園など主だったところで毎日放射能を計測してホームページにアップしてあるのだが、そういったことは誰も知らなかった。特定健診やがん検診については集まってくれた人たちが意識が高いせいか、皆さん知っていた。こちらは例外というべきかもしれない。おとといの午後に横浜からやってきたフィリピン人女性、診察を終えて「さようなら」と言いかけたら、封筒をハンドバックから出してきた。先生、あの、これ何ですか? 見たら横浜市の特定健診の問診表だった。興味があるのでよくよく見たが、外国語の記載は一か所もなかった。これじゃ日本語を読むことができない人はわかるまい。ついつい本人に質問しながら代理で記入してしまった。こういう方が標準的だ。ついでだが、だから外国語表記のものを入れたらというと何語で書いたらいいのかわからないからと言うだろう。いくつかの言葉で「これは健康診断の問診表です」と書くか、続けて「AMDA国際医療情報センターのアドレスからホームページを見て自分がわかる言葉で書かれた問診表をダウンロードしてお持ちください」とでも書いてくれたら本人も医療機関側も大助かりのはずだが。ぜひAMDA国際医療情報センターのホームページに6カ国語だったか、アップしてある特定健診問診表の各国語版を使ってほしい。問診部分は日本全国同じなのだから。そういう型破りの行政マンよ、出でよ。たしか印刷するとどこかにAMDA国際医療情報センター作成とは書いてあるが、これで著作権を主張したりお金をもらおうという気はない。営利目的ではないNPO法人の意地だ。ただし株式会社はそういうことはしないでほしい。もししたら著作権を主張することになるだろう。もう17年前ごろ、一回こういうことがあった。明らかにパクリで僕が相手の会社に乗り込んで文句を言ったが、相手もそれを認めた。どうしてこういう翻訳をAMDA国際医療情報センターがすぐに作成してしまうかというと、それは僕が診療の第一線にいるからだ。だから現場の外国人患者や医療機関側のニーズが直感的にわかる。それを実行するだけだ。ここが翻訳版を作成したり、いろいろと外国人の医療について腐心していている団体との大きな違いかもしれない。
話がそれたが、いわゆる協会健保、昔の社保であるが、これに加入している人は6月~9月に市内の医療機関で特定健診を受けると大和市のおまけ分がついてくる。おまけ分とは4年前までは基本健診にあって、いまの特定健診にはなくなってしまった検査だ。このことは誰も知らなかった。さらにやりたいのは料理教室、野菜を食べなさいと言っても油料理にしてしまう人が多く、「野菜を食べなさい」の真意がわかっていない。そこまで言わないこちらも悪いのだが。僕の患者のひとりにそういう料理を教えていたおばぁちゃまがいらっしゃって、その方にお願いしようかなんて考えもした。さらに一品持ち寄ってのパーティだからどういう会になるか、今から楽しみだ。
  • 2011/8/8 12:12
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毎日、突然雨が降る。ゲリラ豪雨とも呼ぶそうだが、これってスコールじゃないだろうか。バンコックに夏行くとよく出くわす。温暖化現象の産物だそうだが、ことしのセミはかわいそう。鳴く暇がない。きのうの夜、例のアメリカ人女性が持ってきた米軍関係の病院のレポートを読んだ。彼女が目の前にいるとああだこうだと一人でしゃべりまくるのでゆっくり時間をかけて読んでみた。ははーん、こういう単語の使い方するのねなんて思いながら読んだ。精神科疾患のほかにひどい腹痛があると訴えるのだが、文章の中に造影CTを行ったら上腸間膜動脈がきわめて細くなっているとの記載があった。要するに小腸などに行く血液循環が悪くなっているということなのだろう。それで彼女がいつも「米軍関係の病院ではいずれ手術して内臓を全部取らなくなくちゃと言われている。あそこに行くと死んでしまう」と言うのだろう。内臓を全部取るというのは大げさだが、それでも上腸間膜動脈が支配する小腸を全部摘出したら栄養の吸収がさらに悪くなり、常に下痢、水様便が出るにちがいない。今でも骨と皮みたいなのに、彼女が不安に思うはずだ。4~5日後に来てくれ、それまでにリポートを読んでおくからと言ったのできっときょうか、遅くても来週初めにはやってくるに違いない。なんて話したらいいのだろう?リポートを解説して、やはり精神科疾患も診てもらっている米軍関係の病院に行けと言うしかない。また興奮して怒鳴り始めなければいいが。さらにきょうは月に一回ベトナム人の通訳スタッフが勤務する日、さらにさらに昨日、名古屋にいつもいるというアメリカ人女性から「あしたしかこっちにいないから内視鏡して食道炎を診てほしい」という電話があって、3人も予約が入っているのに断り切れずに入れてしまった。今は朝、午後1時ごろ、ちゃんと終わっているだろうか?・・・・・・・・・・・

 実はいま1時、もう終わりそう。すごい一日だった。きょうの内視鏡は順にベトナム人男性、終わったところでカンボジア人女性が胃が痛いと来院。内視鏡予定の人すでに4人もいたので一瞬躊躇したが、痛みが強く、ごはんも食べてこなかったというのでしようと決断、すこし待つよと断りを入れた。そしてアメリカ人女性、ベトナム人のご夫婦と順調に終り、このカンボジア人女性が最後、十二指腸潰瘍だった。やっぱりやってあげてよかった。例のアメリカ人女性は来なかった。
  • 2011/8/6 13:20
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朝からブルー。使っているパソコンが新しく買ったソフトバンクの携帯型ルーターに反応しないのでこの数日、ソフトバンクやニフティに電話した結果、そちらはなんでもないことがわかり、最後の手段としてソニーのカスタマーセンターにきのうの夕方、電話した。案内の女性に導かれるまま、パソコンを操作したが・・捜査しているうちにワイファイが全て入らないので修理でもとの状態に戻しますと言われた。そんなことしたら、大変、ああまた大変なことになったとまっさお、放心状態となってしまった。「ということは今までできていたクリニックの無線ランも入らなくなったということですよね」っと尋ねると「はい、そうです」ときっぱり言われた。ぁぁぁぁぁ、どうしよう。朝クリニックにやってきてからイーモバイルのUSB端末でつなぎ、一応すべきことはした。診察が始まる直前、それでももしかしたらと思い、クリニックの無線ランにつなげる操作をしたら・・・つながった。これってどういうことだろう?どういうことでもいいけどそれから急転ハッピー。よかったあ。
 きのう、厚木の病院を手伝っている外科の同級生から電話のあったバングラデシュの女性、同国人のだんなさんと来院。胸の動悸、痛みがときどきあると言う。胸部レントゲンも心電図もいくつかのところでチェックして異常がないというので検査はせずに話だけ聞いた。いわゆる不安による自律神経失調症と思ったので、このあたりよく話をしたら薬は必要ないと思うと帰って行った。1月の寒い日本にやってきてあの地震、さらにだんなさんは日本流に遅くまで帰ってこないとなればさもありなんである。昼になってさて出かけようかとしたら例のいつも未納のタイ人女性がやってきた。えええって時間である。まずは今まで未納のお金を支払い、「でもきょうの分はない、千円しかない」と言うので、保健福祉事務所の担当者にも話した通り、「お金がなければ薬は出せない」と告げる。心を鬼にして言ったわけだが、すると「一万円あるから診てほしい」と言いだした。ご主人から本人に一昨日お金が渡っていたのは知ってはいたが・・やはり確信犯だったんだ。だから恨むつもりもないが・・そんなもんなんだなと思った。
  • 2011/8/5 12:57
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亡き母の後片付けの件で世田谷区役所に行って来た。ことしの都民税、かわりに支払った記憶もないし・・行って尋ねてみたら支払われていないので調査していたと窓口の人が言う。でも僕は火曜と土曜の夜は母の家に泊っているがそんな請求書は受けとった覚えも見た覚えもないし、まして督促状をもらったこともない。どないなってるの?って言いたい。ところで窓口にいたら欧米系の顔をした若い女性がやってきた。あれれ、言葉はどうするのかな?と思ったら比較的流暢な日本語で「ことしはこれが来てお金が高くなって、私は国費留学生で・・・」と言いだした。ちらっとみると毎月の支払いが4200円って見えた。税金ではなく、これは国保の毎月の掛け金だと係の人が説明していた。係の人の説明は簡単で「ことしはなにも収入がないという申告書(?)を出さなかったから高くなったんです」と言い、いろいろと尋ねながら手際良く書類をつくりはじめ、「はい、これで去年と同じになりました」となんだか煙にまいたみたいだった。考えたらすぐにわかるが留学生や外国人に「申告書を提出しなかったから高くなった」なんてよく言えたものだ。まあ事実はその通りなのだろうが、彼らがどうしてそんな申告書を先回りして出せるだろう? 日本語、うまく読めないのに。
少し前、少子高齢化を前に海外からの留学生を10万人にするとかそんな計画があったように思う。たしか自民党政権下のころだ。この計画は民主党政権になっても継続されていると思うが、本気でそう思って実現させたいのなら留学生が日本で生活していく上での必要なことを何から何まで一か所で相談できるセンターを国がつくるべきだろう。大学や専門学校、各種学校である語学学校の留学生担当など、法律のプロじゃないし。片手間でできるようなことじゃない。もちろん局所的なことはそういうところのほうがよくわかるだろうが。留学生と言えばアルバイトについても週に何時間までと法務省によって定められているはずだ。やりすぎると法律違反となってしまう。そんな相談から日本の医療制度やアパートを借りることや日本のしきたりに至るまで、いまのようにあれはこっち、これはあっちなどということでは日本はわかりにくい住みにくい国ということになってしまう。要は本気で考えているかどうかということだけだ。
  • 2011/8/4 8:56
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