AMDA国際医療情報センター
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プロフィール

小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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理事長 Dr.小林米幸の独り言カテゴリのエントリ

まだ夏季休暇中だが書類や郵便物の整理のためにクリニックに行った。郵便物の中に大和市の広報紙があった。一番後ろに市内で市役所が放射能を計測している場所の地図が書いてある。市民からの不安の声が高かったのだろう。でもいつも書くことだが、日本人が不安に思うことは外国人だって不安に思うはずだ。だからこういう生活に密着した情報は日本語が読めない人にも伝える努力が必要だ。いいや伝えなければならない。僕の書いていることはどこかおかしいだろうか? 夕方パソコンをあけたら市役所から医師会事務経由でメールが来ていた。がん検診のことだが、医師会長として一度目を通しておいてほしいという。読み進むと日本語のつぎに英語、スペイン語、ブラジル語、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語の文章がつぎつぎに現れてきた。ははーん、ここを僕に見て評価しておいてほしいということだなと思った。一行ではなく数行書いてある。日本語ほど詳しくない分、詳細はホームページを見ろ、役所の担当課に電話してもいいと書いてある。このホームページのところ、まだチェックしていないが、ちゃんと外国語で書いてあるんでしょうね、市役所の担当課とは書いてあつたいが、なぜか電話番号は書いてない。市役所の担当課では外国語は通じないと思うが、いったいどういう風になっているのだろう。まさか「ここからは日本語でね」とはなっていないと思うが・・・今回は辛口評価するよりまずは褒めてあげよう。
  • 2011/8/16 21:50
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朝の5時半に起きてスワナプーム空港に行き、搭乗手続きをする。この空港はあれほどタイの新聞で非難されているのに出国審査にいやになるほど時間がかかる。きのうはワンチャイ先生といっしょにタイ厚生省の医者に会った。彼がぜひ日本の保険制度について聞かせてほしいというのでいっしょに昼ごはんを食べたのだが・・・タイ国でも何年前からか忘れたが一日30バーツ約80円の患者負担で医療を受けられるという保険を導入した。たしか記憶では本籍があるところの医療機関だったか住民票のあるところの医療機関だったか、全国共通で使えるというものではなかったような気がする。AMDA 国際医療情報センターでもよく外国人の方から「自分は○○県に住んでいるがこの保険証は東京都でも使えるのか?」という質問を受ける。日本人の我々からすると使えるのが当たり前だろ、当たり前のこと、聞くなよと言いたくもなるが、こういう背景があるのかもしれない。そして当初は一日30バーツの患者負担があったものが、タクシン反タクシンの双方の人気取りゲームの中でいつのまにか患者負担ゼロになってしまった。これは当時のタイ政府にとっても福祉政策としては威信をかけたものだったかもしれない。ところがである。もう制度存続の危機になっているらしい。その一番の原因は所得が低い層に至るまで病院ショッピングというか医者のはしごをし始め、おまけに薬のはしごもして内服しない無駄な薬代が山ほどかかることにもなったらしい。やはり人間、何の個人負担もない福祉制度など大事にしない。日本の場合は保険診療では病名に合わせた診療内容、検査、処方薬とその日数が厳しく制限されており、患者サイドの無制限な要求には応えられなくなっている。さらに各個人の請求書ともいうべきレセプトは医療機関から国年健康保険、社会保険に提出すると都道府県知事の委託を受けた審査員という名前の医師がしつこくチェックをして過剰な医療などチェックしている。チェックでひっかかるとその分の医療費は医療機関には支払われないので、医療機関としても厳しく内部チェックをせざるをえない。ここまで話をすると、本当か? 医者が請求書のチェックをするなんてそんな暇に医者はいないし、そんなことありえないと言う。いいえ、ありえなくない、僕も数か月前まで審査委員だったのだからとここまで話すと「そんなことはできない」と言う。そんなことをちゃんとやらないと当然のごとくに制度は破綻する。やはり負担のない行き過ぎた福祉は行きつくべきところに行きついてしまう。
  • 2011/8/15 9:03
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 きのうはタイ人の親友ワンチャイ医師と彼のクリニックのマネージャーとで食事をした。
そしてさんざんおもちゃにされた。僕は以前からタイ語の辛いを表すペッという発音とあひるを表すペットという発音をうまく区別することができない。このマネージャーという女性、僕と会うたびに「ドクターコバヤシ、ほら言ってみて、ペッとペッの違い」と責める。僕が一生懸命発音しているのに、ボスである親友の方を向き、「ほら先生、全然できないわよ、どうして日本人って発音できないの?」と来る。てやんでえ、タイ人だってさ行とた行の発音の区別できないじゃんて思うのだが、責められているのでうまく切り返せない。とうとう親友までもがワインが入った勢いで「日本人はさ、舌をつけてああしてこうして発音することができないんだよ」と人をまるで人生の落伍者のように言う。そして「俺が言うとおりに発音してごらんほら、ペッとペッ」と言われて僕が一生懸命ペッと真似をして発音しても二人で笑い転げるばかりで、とうとう最後はマネージヤーの女性に「ドクターコバヤシ、ちがう、もうゴーホーム」なんて言われてしまった。実は僕は鶏肉が大嫌い、アヒルの肉も嫌いだ。今まで日本のタイ料理屋に行くたびに僕は「辛さは控えてね」とか「辛くてもだいじょうぶ」とか注文を付けていた。きっと「アヒルは控えてね」とか「アヒルはだいじょうぶ」とか言っていたのだろう。タイ人スタッフは笑いをこらえていたにちがいない。僕が鶏肉嫌いなことはみんな知っているので騒動にはならなかったが、「鶏肉は嫌いって言うくせに、アヒルは平気ってなんだ?」とか「アヒル料理頼んでいないのに、アヒルすこしにしてくれってなんだよ」とか思われていたにちがいない。ああ恥ずかしい。
  • 2011/8/14 12:00
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きのうはなんだか難しいことを書いてしまった。でもきっと僕がこういう活動をしている背景をわかっていただけたにちがいない。バンコックにいると心が落ち着く。日本にいるといつもだれかに追われているような気がして休まらない。「追われている」というより仕事などの件で「いつでも連絡をとれるような体制にしておかねばならないという強迫観念にとらわれている」というべきだろう。バンコックにいるときは携帯電話は二つ持っている。ひとつはタイ専用の携帯、もうひとつはいつも日本で使っている携帯だ。タイ専用の携帯電話機は中のシムカードを入れ替えるとフィリピンでもどこでも使え、持っていると便利だ。それに安い。ただフィリピンは携帯電話の料金が高く、みな電話で話さずにテキストメールという文字数が限定された安いメールでやりとりしているが。日本で使っているいつもの携帯電話を使うメリットは僕にはまったくない、何しろ海外ローミングは値段がばか高い。ただし僕を探している人にとっては便利、この上ない。地球のはてまで逃げてもピツポッパンですぐにつかまえられる。朝早く起きていつも泊まっているコンドミニアムの24階の部屋の大きな窓から日の昇り始めたバンコックを見渡すとなぜかほっとする。
本当はきのう書いたような理由がなければ貿易会社に入って海外で働くというのが夢だった。
きのう、おもしろいものを見た。病院の帰り、久しぶりにBTSのサイアム駅で降りて隣のナショナル スタジアム駅にくっついた東急までサイアムスクゥエアという地域を歩いてみた。あのあたり、学生の多い繁華街なのだが、物乞いのメッカでもあるらしい。たまたまきのうは母の日とやらでタイは休日、すごい人出だったが、数メートルおきに物乞いの人がいる。膝から下がない人、目の見えない人、ルークトゥンやモーラムを歌う人、ソーを演奏する人、こども・・・次に目に入ったのが犬だ。四角い座布団かなにかの上に器用に犬が横になって寝ている。そしてその前にお金を入れてもらうためのコップがおいてある。好奇心で近づいていっても犬は身じろぎもせずに寝ている。あまりの光景に近接で写真を撮ったがそれでも犬は起きない。そしてコップを見るとなんと人間のベテランの物貰いの前に置かれたコップの中身よりはるかに多いコインが入っている。さらによく見るとすぐ近くにこぎれいな黒のバックが置いてある。どこかで見張っているこの犬の主人は相当に頭のいい奴にちがいない。なんだか見ていて楽しくなった。
 そうそう、忘れないうちに書いておきたい。2週間ほど前、卵巣嚢腫だというカンボジア人の若い女性から電話があったことは以前に書いたけどあの続きだ。まだ26歳の未婚の女性に開腹手術を勧めるとは某病院の担当医はいったいどういう了見だったのだろう? 内視鏡手術なら某大学病院を紹介するが、そこでは2年待ちと言われたという。この子はタイのサケオだったかカオイダンだったか忘れたが、難民キャンプで生まれた子だが、生後すぐに一家で日本に受け入れられてやってきただめ、肌の色こそ浅黒いが日本語は母国語同様だ。だから日本語がわからないのでこうなっちゃったということではない。しかも現在医療関係の仕事についていて少なくても一般の普通の人よりは医学用語などについてよく知っている。卵巣嚢腫はチョコレートのう胞と言われたというので、これが事実なら良性腫瘍ということになる。たしかチョコレートのう胞というのは卵巣に発生した子宮内膜症だと記憶している。生理のたびに卵巣にある子宮内膜でも出血が起こり、それがたまったのがチョコレートのう胞のはずだ。開腹手術すると麻酔などにより、特殊体質でもあれば命の危険に陥ることもないわけではない。麻酔剤による肝機能障害だってある。さらに腹膜と臓器の癒着による癒着性の腸閉塞はずっと後までいつ発生してもおかしくはないし、何より美容上の問題が残る。だからこそ僕ら、外科医は「薬で治るものはまずは薬で。外科学的治療は最後の手段です」と厳しく教えられ、メスを握るのは最後の手段と訓練されてきた。今回、手術のための入院の予約をしなければいけないというところまで追い込まれて彼女が僕にSOSを発してきたのは当の本人も本当にこれでいいのだろうかと不安に思ったからにちがいない。なかなか賢い子だ。なにしろ両親の病気も来日以来24年間、僕が診ているし、いつも本人が言うとおり、僕は彼女にとって日本人の父親のような存在なので電話しやすかったのだろう。僕はすぐに近くで開業している信頼できる婦人科の専門医に相談してみた。すると「腹からのう胞を刺して吸引することもできるしさぁ、でなんで開腹するの?」と逆に質問されてしまった。チョコレートのう胞は多胞性のこともあり、吸いきれないときもあるけどさ・・と言いながらも彼は穿刺をしてくれた。すぐに彼女から電話があって「先生、350CCも抜けました。おなかの痛みもなくなってよかったあ」と話してくれた。そりゃ10センチ×10センチのしこりがなくなればおなかも中も楽だろう。けっきょく若い女性医師に開腹手術を勧められるまま、入院直前まで行った理由がやっぱりわからない。患者であるこのカンボジア人女性にもわからない、担当医に何か言われたが理解できなかったと言っていた。わからないからこそ僕に連絡してきたのだろうが・・まさかとは思うが若い医師が経験のために開腹手術してみたかった・・なんてことは絶対にないと思いたい。
  • 2011/8/13 10:00
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 母は一か月も栗山の家にいて僕を放さないという祖父と祖母と僕が思い込んでいた祖母チノを説得してくれた。母と僕を乗せた汽車が苫小牧に向かって栗山の停車場を出るとき、母と僕は席にすわり、窓をあけて祖母と親戚のおばさんの顔を見た。列車の汽笛で母は深々と一礼し、祖母チノは僕の手を握って離そうとせず、ゆっくり動き出した汽車に合わせるように大きな声で僕の名前を呼びながらホームを走った。チノという女性は本当の孫ではないのに本当にかわいがってくれたし、叱ってもくれた。やはり祖母にちがいない。こうして東京に出てくるにあたり、母は祖父、祖母とひとつの約束をしていた。夏休み、冬休みは僕を栗山に返すということである。だから僕は祖父が亡くなる大学1年までずっと東京と栗山を往復していた。東京では母が必死に働き、僕は昼間、学から帰ると母の実家で母の帰りを待つという生活をしていた。こどもにとってはつらい生活だったが、それでも学べることはあった。僕が母といっしょのときと僕が北海道から出てきた祖父といっしょのときではデパートの店員の態度がちがうこと、そして東京の生活と栗山に戻った時の生活では僕に対する人の態度がまったくちがうことだ。人の態度なんてこんなものである。
そういう態度は人間としてとってはならないということを学んだ。
 父は相変わらず愛人らしい女といっしょにいて月に一回ぐらい現れた。小学校4年のとき、家といっても四畳半とちょっとのところに帰ったら見たこともない幼稚園ぐらいのこどもがいた。母は友達のこどもを預かったと僕に説明したが、直感的に父と関係があるのだなと思った。父の愛人がこどもを産むので上のこどもを預かったのだ。その女性はけっきょく父のこどもを3人産んだ。僕から見ると母のちがう兄弟というわけだが、その上に預かったその子がいる。その子は父とはちがう別の男性のこどもなのだが、彼とは今でも年賀状のやりとりをする間柄だ。父の乱行は女だけではなかった。祖父のまねをして商売をしようとするのだが、お人好しで祖父ほど厳しく商売に臨まない、しかも虚言癖があり、何をしていたのかは僕にもわからない。僕のころは戦後のベビーブームで私立中学校が公立よりもよくなってきた時代だった。僕も私立中学を受験しようと今はない日本進学教室というところに日曜のたびに通った。今では考えられないが、当時通っていた公立の小学校では私学の面接試験の模擬試験などやっていた。当時の担任の先生に「君のお父さんの仕事は何ですか?」と尋ねられた。僕は母から聞いていた通りに話した。するとその女性教諭が怒り出し、君はうそつきだと僕に言った。母はいろいろなメンツを考え、僕に話したこととはちがうストーリーを担任に話していたのだろう。これについては母を責めることは一切言わなかった。担任は恨んだ。僕が嘘を言ったと決めつけたこと、それをクラスのみんなの前で言ったこと、世の中には言いたくても言えないことがあるということにも気がつかなかったことだ。だから今、僕は患者がたとえ嘘かなと思うことを言っても責めないし、決めつけない。たとえそれが本当に嘘だとしても嘘を口から話さざるをえないこども、患者の気持ちとその背景に気がついてあげなくてはならない。まだまだあるが、この先生は反面教師としてりっぱな先生だったわけだ。そんなこんなで僕の中学受験はみごとに失敗した。高校受験も失敗したが、共通点があって試験の当日になると突然40度近い熱が出てふらふらになってしまう。過緊張だったのか母の期待にそおうとしたのかはわからないが母の親戚一同からはストレスに弱いこどもという印象を持たれたにちがいない。
 中学に通い始めた1年のとき、ある日、母が友人と建てた大森のアパートに帰ると母が泣いていた。父が詐欺を働いてその債権者という人たちが後で来るという。やってきた連中はいかにも日陰の生活をしていますという連中でアパートを取り上げると母を脅かし、僕はそれを同じ部屋の中で聞いていた。彼らが帰った時に母にいっしょに生活していないのに取られるわけがない、父は早く離婚するようにと母にせっついた。早くおとなになって母の相談相手になりたかった。けっきょく母が離婚したのは僕が高校生のころだった。母なりにあんな父親でも愛していたのだと後になって確信したことがあって母にはかわいそうなことを言ったと思った。実はこの債権者という連中こそが父をだましていた連中だったのだが、父は人だけは良かったようでだまされて最後は自分が詐欺師にされてしまうということを繰り返した。最後に詐欺で室蘭の刑務所から桜のマークの付いた封書が僕に送られてきたときは僕はもう大和市立病院の外科の医長だった。祖父が亡くなり、保釈金の要求なども祖父にかわって僕に来るようになったが、僕は心を鬼にしてすべて断った。思えば中学、高校のころは暗いこどもだった。クラスメートから見たら勉強ばかりしているいやな奴だったにちがいない。父が詐欺を働いて刑務所に入っているなど人に言えるわけもなく、将来北海道のあの父親をいじめて卑屈にさせたあそこにも戻りたくないと思っていたので頼るのは自分だけ。自分の力で生きていかねばならない。必死で勉強した。僕がいやなのは僕の経歴、高校から慶応というのを見てきっとお坊ちゃんで育ったのだろうなと思われることだった。みんな祖父が授業料を出してくれた。父のことがあり、一流の会社を受けに行ってもきっと家族を調べられたら合格できないと思い、弁護士か医者になろうと決心したのが高校2年のころ。本当に必死で勉強した。弁護士は大学を卒業してもなれるとは限らない、医者なら医学部を卒業したらなれる。医者に絞って勉強をしたがもとから文科系の頭、つらかった。僕が医者になろうと思ったのはこんな理由で人を助けたいなんて崇高なものはみじんもなかった。ただ自分が助かりたかっただけ。高校3年の秋ごろ、北海道の祖父が突然愛人のひとりといっしょに上京してきた。僕に会いたいという。新橋のホテルの一室で会ったとき、開口一番、「手紙で知ったが医者になることは絶対に許さないし、金も出さない、経済学部に行き、卒業したら栗山に戻って自分の跡を継ぐように、そのためにお前を養子にしたい、おっかさんにはお前を養育した費用として二千万を渡す」こう言われた。まだ高校3年生、血が頭に上った。「もしそう思うならどうして今までほおっておいたのか、生活に苦しいことも知っていたはずなのに。あなたが今まで作り上げてきたものは僕の手ですべてぶち壊してやる」と叫んだ。皆が怖がるほどのワンマンだった祖父だが、そのとき静かに笑いながらこう言った。「お前に壊されるなら本望だなや。」そして母のほうを向いてこう続けた。「お前の父親は梶原重之助というんだろう?」。嫁入りするずっと前に父親は亡くなっていたので母はびっくりして「おとうさん、どうして父の名前を知っているのですか?」と尋ねた。「実は俺が日の出の勢いで商売を始めたころ、神戸から来たという商人に損をさせられたことがあった。それが梶原重之助でお前が嫁いでくるときにすぐに気がついた。今まで黙っていたが米幸には俺とお前の父親の血が流れている。商売人として絶対に成功するだろうから栗山によこしてくれ」、そういう祖父の言葉に冷静さを取り戻したが、けっきょくけんか別れしたように思う。祖父は帰って行ったがこれが永久の別れになった。半年後、札幌の斗南病院で胃がんで亡くなった。僕が呼ばれてかけつけたときにはもう意識がなかった。きっと自分の体調の悪さに気がついて必死の思いで東京までやってきたのだろう。そういう年寄りに僕はかわいそうなことをしてしまった。今でも胸がめつけられる。僕は首尾よく医者になることができた。もう自分の過去も隠す必要がない。それでも世の中には自分がしたことではなく、ただそこに生まれたというだけでいわれなき差別を受けている人たちがいる、日本人でも外国人でも。それに目をつぶってしまうことは僕にとっては今まで生きてきた自分を否定することなのです。だから僕は確信犯だ。いつだったか娘と息子にこの話を長々と話した。すると娘が一言、「お父さん、それって自慢?」と言った。
 祖父が亡くなるとき、祖父の事業を引き継ぐ連中から病室で陰湿ないやがらせを受けた。お前も金がほしくてきたならこれでも持って帰れと汚物をぶつけられたこともあった。危篤になってから亡くなるまでの一週間、あまりの精神的つらさに耐えかねて一度東京の戻ってくるほどだった。葬式ではお焼香の順位をずっと後に下げられ、すれちがった祖父の妹には肘鉄を食らわされた。新聞ではその存在を無視された。いま、ごくたまに栗山に戻ると夕張炭鉱は閉山となってあの一帯過疎の町となり、昼間に人を見つけるのもむずかしい。これでは祖父の残した酒造会社も従業員の確保さえむずかしいにちがいない。つい先日1時間だけ栗山に寄った時に親しい親戚の目上のおじが言った。「あんた、ここに戻ってこなくてほんとによかったさ、いまは大変だよ」。そうかもしれない。
  • 2011/8/12 16:37
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 しかしどんなに複雑な人間関係があろうと曲がっていったのは本人のせいだというのが僕の考えだ。仕事ができないのに女遊びだけは祖父に負けず劣らずだったらしい。親戚にいじめられて屈折していく父を見て女中頭のおばばという女性が身を挺して家の中で守ってくれた。中学生になったときにおばばの亡くなったことを知り、室蘭の本輪西に住んでいたおばばの息子さんの家を訪ねたとき、息子さんが「母さんは実の子供の俺より、人のこどものあんたの父さんのほうがかわいかったんだもんねえ」と言ってくれたことがあった。ほんとにその通りだった。僕もおばばにすごくかわいがってもらった。
 父は小樽の国立大学に進学した。数学が一題もできなかったが、祖父の力で入れてもらったと聞いたことがあるが、ひょっとしたら昔の田舎の国立大学ってこんなこともあったのかもしれない。父は小樽では祖父の姉が嫁いでいた池田製菓というお菓子屋に下宿していた。池田製菓のバンビキャラメルといえば僕の世代、北海道で育った人なら古谷のスキーキャラメルと同じくらいよく知っている。その池田製菓に神戸から疎開してきた僕の母が働いていた。どういう出会いか知らないが、二人は昭和23年に結婚し24年に僕が生まれた。僕が生まれても父の女遊びはやまなかったらしい。亡くなった母に聞くと冬の夜、帰ってこない自分の亭主を探して来いと舅、姑に言われ、やっと歩けるようになった僕の手を引いて雪の降りしきる町の飲み屋を一軒一軒訪ねたそうだ。たぶん母はまだ23歳にならなかったころだろう。父が帰ってきて母と言い争い、母を殴ったことは鮮明に覚えている。母は泣いて隣の部屋に逃げ、父は僕の手をひっぱり「米幸、いっしょに寝よう」と言ったが、父のその手を無言で振り払い、隣の部屋の母のところに走って行ったら母がしっかり抱きしめてくれた。生前、母にこの話をしたら「ほんとに覚えているの? あんた、まだ2歳になっていなかったころよ」と言われた。だから女性にふられても腹がたっても生まれて62年、女性を殴ったことはない。この話を娘が高校生のころだったか話したら「うそつき、お父さん、小学校のころによくぶったじゃん」と言われた。よく考えてみたらたしかに中学受験のころ、娘の勉強を見ていてそういうこともままあった。娘だけは例外であった。あれは愛のむちと言っても本人は納得しないだろう。その娘もことしから大和市の隣の市立病院の研修医をしている。浪人も留年もしなかったのはいいけど、まだ24歳の社会経験で医者としてやっていけるのだろうか。いつも心配している。
 父はあるとき急に僕の目の前からいなくなった。あとから知ったけど愛人といっしょに東京に逃げたのだ。母の姿もあるとき見えなくなった。夫が愛人といなくなり、大家族で住んでいる栗山にいられなくなり、東京に出てきていた実家を頼って出て行ったのだ。後から聞いた話では母方の祖母に「あそこに置いておけば米幸はお金で困ることはない。だから置いてこい。いっしょに連れてくることは許さない」と強く念押しされたということだ。母が1月に亡くなって遺品を整理していたら母と栗山の親族との手紙のやりとりがたくさん出てきた。その中に「こどもがお母さん、どこに行ったの?と尋ねて困ります。こんな答えられない。だからお母さんは病気で入院していて今は会えないけど、ボクもちゃんとごはん食べて元気にしていないと入院してしまうし、お母さんが悲しむよ」って話しているという手紙があった。こどもとは僕のことだ。それから小学校3年になるときに母が迎えにくるときまで僕はひとりで栗山にいた。祖父や祖母が僕の教育のためにつけてくれた教育係を兼ねた女中さんと月に一回、東京の母にあてて葉書を書いた。この葉書も母の遺品の中から出てきた。大切に持っていてくれたにちがいない。だから僕は恥ずかしいが涙もろい。
  • 2011/8/12 16:36
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バンコックに着いたらすごいスコール、経済発展で新車が多くなったのにきのうはコンドミニアムまで古いタクシーに乗った。途中で右の肩に冷たさを感じてみたら水滴が落ちてくる。よく見たらタクシーの内側が雨に濡れていた。ドル安の関係で円とバーツの関係も若干円高に振れており、1万円を市内の両替所で交換したら1万円が3800バーツを超えていた。
 昼からバンコックの病院に行き、夕方に友達と会う。それまでの時間、バンコックにいる時間のある間にいつもは書けないことを書いておこうと思う。
 僕の自分史だ。外国人医療への取り組みから僕のことを人権の闘士と思い込んでいる人たちがいる。過大な評価は困る。本当は適当が大好きといういいかげんな奴です。ここまでは前置き。

 僕が生まれた北海道の夕張郡栗山町というのは財政破たんで一躍有名になった夕張市の隣町で、夕張市は山の中だが、栗山町は石狩平野の終わるところにある。町の東には夕張山脈、西は石狩川第一の支流夕張川が流れ、途中雨煙別川などが合流し日本海に続いていく。
 国鉄室蘭線とジーゼルカーで運転されていた夕張鉄道が交わるところで、夕鉄に乗ると野幌操車場までジーゼルカー、そこからバスに乗り換え、札幌大通り公園まで1時間ちょっとだった気がする。僕の思い出がすべて詰まった文字通り僕の心のふるさとだ。産業といえば祖父が経営する酒造会社にコンクリートをつくる会社、保険代理店などを務める会社など・・要するに祖父の息のかかった会社ばっかりというわけだ。保育園や小学校の低学年のころに友達の家に行くと僕を迎えてとまどったという表情をする家と明らかに来てもらって迷惑という態度の家があった。きっと厳しい経営もしていたことだろう、祖父を恨む人もいたにちがいない。その町を牛耳っているドンの孫がやってきたのだから複雑な気持ちであったにちがいない。言葉には出されなくても歓迎されていないことはすぐに子ども心にもわかる。家の中の貧しさもわかる。自分とちがう人たちがいるのだなと強く思った。僕の父方の一族は明治の終わりに新潟県の刈羽郡西山村や長岡、柏崎、出雲崎にちらばっていた一族がリーダーである祖父に率いられて集団で北海道に渡ってきた。おかげで僕も小さいころからよく新潟の親戚を訪ねる旅に連れて行かれた。長岡の薬局に嫁いだ祖父の怖い姉の家や新保というところに行った記憶がある。この一族は大きく小林と田中という2つのグループから成り立っていてもともとは親戚らしいのだが、北海道に渡ったのちに同族の中での結婚が何組もあり、誰に聞いて一族の系譜を書いてもわからないところが山ほどある。僕は実は田中の系統なのだが、祖父が小林の側に養子に行ったため小林姓なのである。祖父は英雄色を好むを地で行くような人で妾がいっときは7人もいたという。携帯電話もない時代だったからできたのだろう。本妻もいれたら8人の女性に生まれた子供は妾に生まれた僕の父だけだった。最後の妾である山川という女性に自分に女の子が生まれたがすぐに死んでしまったと本人の口から聴いたことがある。たぶん僕が19歳のころだと思うが真偽のほどはわからない。父の本当の母親という人に会ったことが一回だけある。大学生になりたてのころ、ある理由で探して会わざるを得なくなり、日高の鵡川という町まで父と行った。もとは芸者をしていたその人は祖父のことをある人から「内地からときどきやってくる商人だと紹介された」と言っていた。一度は生後すぐに本妻に引き渡した息子を取り戻そうと栗山の家に行き、首尾よく赤ちゃんの父を連れ出したが気がついた家の使用人に駅で取り押さえられ、箒でさんざんたたかれたらしい。僕から見たら実の祖母になるわけだがその人の妹の孫、すなわち僕のはとこにあたる女性は札幌出身のちょっとは売れていた歌手だった。本人と話したことはないがお母様と話したことは何回かある。父もそのとき実の母であるその女性と違和感なく話していて、話の内容も僕の知らない人や知らないことばかりで父と実母の間に比較的密な連絡があるのだなと初めて知った。父は生後数日で祖父の本妻に引き取られた。ところが世間体が悪いと思ったのだろう、祖父は自分の戸籍には入れずに兄弟の戸籍に入れてくれるように頼みこみ、新潟で小学校の校長をしていた義理の弟には断られたものの、新保というところにいた兄の戸籍に入れて、そこから養子を迎えた形で自分の戸籍に入れた。一族が集まって酒造会社を経営し、町をしきっていたところに後継ぎの有力候補として突然出現した妾のこどもに親戚の目がやさしいわけがない。父は複雑な人間関係をバックにしだいに曲った人間になっていったという。
  • 2011/8/12 16:33
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いまは成田空港、久しぶりに外国人医療と関係のないことを書きたくなった。暑いときにこれからバンコック、先方では親友のワンチャイ先生はじめ看護師さんたちがいつも暖かく迎えてくれる。いま気がついたが出かける前にあまりにも忙しかったせいか、ワンチャイ先生には一昨日電話しておいたものの、看護師さんたちには電話もメールもしていなかった。連絡すると看護師さん10人ぐらいといつごはんを食べるという話になり、段々僕の自由時間がなくなっていく。ひとり、カラオケ好きの看護師がいていつも誘われる。私たち、日本語の歌うたうから先生、タイの歌、歌うのよってできるわけない。タイの歌についてはものすごく詳しいが、日本でいう陰と陽の音階がまじりあって、いい気持ちで歌っていると突然階段の板がはずれたように歌を踏み外す。およそ西洋音楽に慣れ親しんだ人には歌えない。旅はいつも飛行機もホテルも自分で手配する。昔々、小学校の三年のときに夏休み、冬休みは祖父と祖母のいる北海道の田舎の家に帰るという約束で東京に出てきた。正確に言うと出てこざるをえなかった。小学生のときは飛行機で往復したり、親戚の目上の人に連れられて青函連絡船を乗り継いで列車で往復した。21時間近くかかった。中学生になってからは自分の乗る列車を時刻表で選び、朝の7時に駅にならび、特急券を買った。ボストンバッグを抱えて一人で往復していた。そのころから旅好きだ。暇があると時刻表を買って読んだ。高校生のときにはワンダーフォーゲル部に入り、山を歩き、あっち行く旅もこっち行く旅も自分たちで旅程を立てた。今の飛行機好きも旅好きも小学生のころから始まっていたのかもしれな。いま62歳、いつまで元気に旅することができるだろう? ときどき日本人の高齢の患者に言われる。先生、いいわねえ、またバンコック? 一度連れて行ってよ。先生と行けば安心だしさ、あともう一回死ぬまでに旅行したいわ。僕と行くと高いよ、チケット高いときしか休み取れないからというと、いいのよ、すこし高くたってさ、もう旅行者のツアーには入れないし、お金残したってしょうがないもん。というわけでいま、真剣に考えている。
  • 2011/8/11 8:59
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あああ、忙しい。夏季休暇の前のためか、ほんとに忙しい。いつも昼近くにやってきて待っているうちに時間がないとそわそわしだすフィリピン人男性、きょうは朝早くやってきた。彼は相鉄線相模大塚の駅近くでフィリピン料理のレストランを経営している。最近こないねードク と言うので嫌いになって行かないと勘違いされてはいけないので、土曜の夜はいつも世田谷の母の家に管理に行くので行けないけどごめんねと話しておいた。最近、やせたよという彼、おなかを触ってもちっともやせたとは思えない。何かのまちがいではないだろうか。きのう、小児科は南アジアデイだった。インド人にパキスタン人の兄弟、英語を話す人たちが来るとやはりほっとする。今度の9月11日の大和市医師会主催の在住外国人の健康の集いというか健康フェスタというか・・・外国人の人たちの希望で日本料理も教えてほしいということになった。講師は・・・というと僕の日本人の患者の中に学校の調理にずっと勤務していたという高齢の方がいる。以前にこの方が今回の会場として予約した同じ場所で肉料理の講習をしたというのを聞いていたのですぐに自宅に電話、やだわ、先生、私よりほかに適切な人いるでしょ?と言われたが、まんざらではない雰囲気を僕が見逃すわけがない。押し通してお願いをした。僕の狙いはついでに彼女のゲートボール仲間の高齢者の方にもわんさか来てもらってほぼマンツーマンで指導をしてもらうこと、そうすりゃ次からどこかで会ったときに挨拶し始めるだろう、外国人女性の孤独感も消えるだろうし、高齢者の方々の楽しみも増えるかも。いつも診察しながらの世間話は単なるおしゃべり好きと思っている人たちもいるようだが、実はそうじゃない。こんな時のための情報収集なのである。
  • 2011/8/9 15:19
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あと二日診察したら夏季休暇、早くあと二日たちますように。外国人の患者にいつからいつまでお休みだから来ないようにね、知り合いにも伝えておいてねと話しておく。留守番電話が困ったことに時間的に二カ国語ぐらいしか入らない。朝からフィリピン人の患者が多い。初診の患者、持ってきた国保の保険証の有効期限が切れている。やむをえず、役所に問い合わせして新しい保険証がまちがいなくあることを確認してから診察。頭痛とのことだが、毎日バッファリンを二回内服しているとのこと、片頭痛でもないし、緊張性頭痛でもなさそう。血圧が高くなりそうな年齢ではないが、念のために測定したがまったく正常。たぶん鎮痛剤の副作用としての頭痛ではないだろうかと推察。頭痛があってもすぐには鎮痛剤を内服せずにがまんしてみるように話して帰した。昼前になってクリニックのフィリピン人通訳から患者のひとりがきょう誕生日でみんなでパーティをするから先生にも来てほしいと電話があったと知らされた。行くといったんは答えたが、きのうおとといとバソコンのセッティングなどで夜遅くまで頭を抱えていたのできょうは朝から軽い頭痛、できれば家で休みたい。声かけてもらえたのはうれしいけど・・と事情を話してお断りした。朝から夕方までがん検診の申し込みが多い。外国人の方々にこういう情報がちゃんと伝わっているのかあらためて心配になった。
  • 2011/8/8 18:11
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