AMDA国際医療情報センター
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小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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理事長 Dr.小林米幸の独り言カテゴリのエントリ

20日、診察が終わってから9月11日の大和市医師会主催の外国籍市民のための医療活動について、僕と外国籍市民数人との話し合いを持った。僕らの気持ちだけでなく、彼らも何を知りたいのか聞いておきたい。そうじゃないと日本人サイドのひとりよがりの会になりかねない。話し合っておおよその進め方が見えてきた。午後5時から初めてまずは会場に入っていくと予防接種、特定健診、がん検診についての各国語翻訳版のちらしを置いておく。市役所の担当者から市内の放射線測定の場所と結果についての説明、さらに医師会側から現在の放射線での健康被害があるかないかの話、ここからメインの会場では一品持ち寄ってのパーテイをしながら各科の医師による健康相談と外国籍の人たちから日本の病院、クリニックについての質問、どうして日本の病院に行くとどうしてこうするのだろう?というような疑問がたくさんあるそうだ。これはけっこう医療従事者の我々にとっても役立つ。
 そしてサイドの会場では市内のおばちゃまたちによる和食の料理教室の開催を企てていた。ところが19日になってこのおばちゃまから「せんせい、やっぱりできないわ、私」という電話があった。ここでああそうですかと言ってはもとの黙阿弥なので「○○さん、待ってますよ、1時半だよ、1時半」と言って一方的に電話を切った。きょうの準備会、彼女が現れないまま開始したが、20分もしたころに「やっぱり先生の顔見て断らなくちゃ」とやってきてくれた。すると外国籍の女性たちが豆腐料理は・・とかおつけものは・・とか我先にあれが知りたい、これが知りたいと彼女に話しかけ、彼女もあれはね・・これはね・・・と答えてくれた。気がついたら料理教室の開催が決まっていた。よかった。彼女のゲートボール仲間も来てもらうつもりだ。大和に住んでいてよかったとみんなに言ってほしい。きっといい会になるにちがいない。
  • 2011/8/21 9:00
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皮下挿入型の避妊薬を摘出したいが紹介してほしいという電話が長野県からあった。摘出してほしい人はスペイン語を使う人のようだ。いつも不思議なのだが、どうして地域の医療機関の外科医が摘出に躊躇するのだろう? あれは合成樹脂の弾力ある細い棒が数本、上腕の内側の柔らかい部分の皮下に数本が扇形に埋め込まれていて、棒の中の白色の薬剤がゆっくりと溶けて体に吸収されて避妊の役割をなすものだ。欧米、アジアでもタイなどではよく使われている。日本では保険診療では許可されておらず、日本人の医者にとっては「未経験」ゾーンの代物だ。だから取ってくれと言われてもよくわからないものを取っていいのかどうか迷うのかもしれない。肩に向かって扇形に挿入されているので扇の部分に局所麻酔を行って切開を加えるとものの数分で摘出できる。たったこれだけで僕のクリニックに静岡や栃木、山梨からやってきた南米の人たちがいる。交通費と時間を考えたらほんとにかわいそうになってしまう。近くの産婦人科の先生からブラジル人の女性が卵巣のう腫なのだが内視鏡手術ができてブラジル語またはスペイン語で対応できる医療機関を教えてほしいという電話があり、こちらはAMDA国際医療情報センターに問い合わせてくれるよう、電話番号を伝えた。きのうといい、なんだか僕自身がお助け機関のようになってしまっている。日本人の男性、真っ赤な血尿が出たと真っ青になってやってきた。いかつい大男だ。ついてきた奥さんはフィリピン人、だんなさんが病院嫌い、医者が怖いということでついてこないと受診しないで帰ってきてしまうのが心配でいっしょに来たと話してくれた。いろいろと話を聞いて、やはり泌尿器科を紹介すべきと開業医仲間に電話して話を始めたら、患者が突然、「あっ先生、すみません、血尿じゃなくて血便です」とのこと。あわてていたということだが、こちらもこんなこと初めてで驚いた。泌尿器科医にはわけを話して電話を切った。
  • 2011/8/20 9:00
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 けっきょくきのうは小児科も合わせて15人の外国人の患者来院。国籍はペルー、タイ、フィリピン、韓国、ブラジル、パラグァイ、パキスタンと7カ国、バラエティに富んでいる。午後になって関東地方のある大学病院のソーシャルワーカーを名乗る方から電話があった。外国人患者のことで聞きたいと言っているけどどうしましょうと受付が聞くので、つないでもらった。お子さんが日本にいる中国人の方が観光OR短期滞在でやってきて、ペースメーカーを入れる状況になってしまったが医療費はどうなるのでしょうという質問だった。本来、こういう質問は私のクリニックではあまり受けない。長電話になると診察中の患者をお待たせして申し訳ない事態になったり、クリニックに電話してくる患者のじゃまになってしまうからだ。AMDA国際医療情報センターの電話番号を紹介するのが通例なのだが、たまたまそのときは患者が一瞬途切れたのと声の調子から相当に困っているのだろうと思い、そのまま受けてしまった。お子さんは社会保険―今でいう協会健保に入っているそうなので長期滞在して企業で働いているのだろう。お子さんがまず自分の協会健保の家族として入れようとしたら断わられたそうだ。やむをえまい。日頃から皆で掛け金を支払い、病気の時にはそれで医療費の7割を負担しようというのが日本の皆保険制度の骨子だ。かわいそうとは思うが、ここに突然やってきて大きいお金を支出させ、元気になったらまた国に帰っていくというのでは困った時だけのおいしいどこ取りのつまみ食いと同じだ。こういうことをしていったら日本の皆保険制度などあすにでも崩壊してしまう。だからといって病気になったあとで加入する民間保険などないだろう。今からではもう遅いが、こういうことがあるから自分の国を出てくるときに旅行保険などの民間保険に加入してきてほしい。各地の国際交流協会など地域の外国人に常日頃、接している団体、個人はぜひ外国人の方々に伝えてほしい、外国人の伴侶を持っている日本人に伝えてほしい。自費で支払えということになったら困るのは肩代わりさせられるであろう親族や伴侶などの立場の人たちなのだから。
 この医療機関に残された手段は限られている。生活保護も行旅法も使えないから、もしペースメーカーを埋め込む前なら可能なら急いで帰国してもらうことー日本と中国の時間的距離を考えたら不可能な話ではないと思う。羽田―上海なら2時間ちょっと、北京でも3時間半ぐらいだろう。お金はないから支払えないし、でもその病気の家族を日本においてほしいというのはちょっとどうかなって思う。もしペースメーカーを埋め込んでしまったなら自費で分割で確実に支払ってもらうことだろう。僕がいつも心配するのはここで未納金が発生すると、「じゃ、もう外国人を診るのはやめようか」という医療機関が現れることだ。医は仁術といわれるが、それでも僕ら経営者は職員に給与を支払わねばならない。いま、医療機関の経営は厳しい。診療報酬はほとんど横ばい、合理化をしても職員給与にまで踏み込むと職員、とくに医療職が集まらず、医療の質が下がってしまう。それどころか入院施設を持ったところなら病棟閉鎖に追い込まれかねない。ぎりぎりの経営をしている。そういう状況で入ってくる物が入らなくて出て行くものは出て行くとしたら、それは経営危機につながる。これでは経営者としては失格であろう。
  • 2011/8/19 8:55
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 ああとうとうきょうから仕事。待っていてくれたのか外国人の方が多い。29歳の初診の韓国人男性、数日前から頭が痛くて首が張ると訴える。動悸もするというので血圧を念のために測ったら146/98、頭が痛くて動悸がするはず。母親が血圧が高くときどき母親の血圧計で測っているが、いつもは110台だというのでとりあえず数日間分の軽めの降圧剤を処方した。しかし20代でも高血圧っているのね。血圧測ってよかった。36歳、フィリピン人女性、友人が以前に僕のクリニックで健診を受けたが、それと同じ健診をしてほしいと友人の結果のコピーを持ってやってきた。見ると米軍基地に提出する書類だ。もっと正確に言うと米国軍人と結婚して米国に渡航するための健康診査の書類である。ツベルクリン反応、ツベルクリン反応が陰性な場合以外は胸部レントゲン写真、さらにエイズ検査、梅毒検査にクラミジアの検査。いつもこの書類を書いていて思うのは、もしこの検査でエイズ検査で陽性と出たら米国には渡航できないのだろうかということだ。人権がすごく進んでいる国でもおやっと思うことはあるらしい。
 ブラジル人の大きな女性、首のすぐ下の後頚部にこちらも大きな粉瘤(アテローム)がある。首を後ろに曲げるとつっかえるというかなにか圧迫感があるらしい。取ってほしいというが、あの大きさのものを摘出したら皮膚の下に大きな空洞ができてそこに体液が貯まりかねない。そうなると抜糸をすると傷が離れてしまうかもしれない。美容上の問題が残り、あまりやりたくないので大和市立病院の形成外科受診を勧めたが、言葉のわからないところでやるのはいや、ここで手術してほしいとさんざん粘られ、とうとう受けてしまった。気が重い。手術はきれいにうまくいって当たり前と受け取られやすいから。昨日だったか一昨日だったか、役所から来たがん検診クーポンに関するお知らせの裏に数カ国語で表記のあった件、各言語のところに役所のホームページを参照してほしいまたは役所の担当課に電話してほしいと書いてあったので、きょうの昼休みに別件で役所と話し合ったその後に尋ねてみたら、やっぱりホームページは日本語のみ、担当課の電話では外国語対応はできませんということだった。それならなぜ書いたの?と突っ込みたくもなる。こういうことこそ地域の国際関係の団体とかAMDA国際医療情報センターに委託して数か国語対応でやってもらえばいいのに。
  • 2011/8/18 15:41
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まだ夏季休暇中だが書類や郵便物の整理のためにクリニックに行った。郵便物の中に大和市の広報紙があった。一番後ろに市内で市役所が放射能を計測している場所の地図が書いてある。市民からの不安の声が高かったのだろう。でもいつも書くことだが、日本人が不安に思うことは外国人だって不安に思うはずだ。だからこういう生活に密着した情報は日本語が読めない人にも伝える努力が必要だ。いいや伝えなければならない。僕の書いていることはどこかおかしいだろうか? 夕方パソコンをあけたら市役所から医師会事務経由でメールが来ていた。がん検診のことだが、医師会長として一度目を通しておいてほしいという。読み進むと日本語のつぎに英語、スペイン語、ブラジル語、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語の文章がつぎつぎに現れてきた。ははーん、ここを僕に見て評価しておいてほしいということだなと思った。一行ではなく数行書いてある。日本語ほど詳しくない分、詳細はホームページを見ろ、役所の担当課に電話してもいいと書いてある。このホームページのところ、まだチェックしていないが、ちゃんと外国語で書いてあるんでしょうね、市役所の担当課とは書いてあつたいが、なぜか電話番号は書いてない。市役所の担当課では外国語は通じないと思うが、いったいどういう風になっているのだろう。まさか「ここからは日本語でね」とはなっていないと思うが・・・今回は辛口評価するよりまずは褒めてあげよう。
  • 2011/8/16 21:50
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朝の5時半に起きてスワナプーム空港に行き、搭乗手続きをする。この空港はあれほどタイの新聞で非難されているのに出国審査にいやになるほど時間がかかる。きのうはワンチャイ先生といっしょにタイ厚生省の医者に会った。彼がぜひ日本の保険制度について聞かせてほしいというのでいっしょに昼ごはんを食べたのだが・・・タイ国でも何年前からか忘れたが一日30バーツ約80円の患者負担で医療を受けられるという保険を導入した。たしか記憶では本籍があるところの医療機関だったか住民票のあるところの医療機関だったか、全国共通で使えるというものではなかったような気がする。AMDA 国際医療情報センターでもよく外国人の方から「自分は○○県に住んでいるがこの保険証は東京都でも使えるのか?」という質問を受ける。日本人の我々からすると使えるのが当たり前だろ、当たり前のこと、聞くなよと言いたくもなるが、こういう背景があるのかもしれない。そして当初は一日30バーツの患者負担があったものが、タクシン反タクシンの双方の人気取りゲームの中でいつのまにか患者負担ゼロになってしまった。これは当時のタイ政府にとっても福祉政策としては威信をかけたものだったかもしれない。ところがである。もう制度存続の危機になっているらしい。その一番の原因は所得が低い層に至るまで病院ショッピングというか医者のはしごをし始め、おまけに薬のはしごもして内服しない無駄な薬代が山ほどかかることにもなったらしい。やはり人間、何の個人負担もない福祉制度など大事にしない。日本の場合は保険診療では病名に合わせた診療内容、検査、処方薬とその日数が厳しく制限されており、患者サイドの無制限な要求には応えられなくなっている。さらに各個人の請求書ともいうべきレセプトは医療機関から国年健康保険、社会保険に提出すると都道府県知事の委託を受けた審査員という名前の医師がしつこくチェックをして過剰な医療などチェックしている。チェックでひっかかるとその分の医療費は医療機関には支払われないので、医療機関としても厳しく内部チェックをせざるをえない。ここまで話をすると、本当か? 医者が請求書のチェックをするなんてそんな暇に医者はいないし、そんなことありえないと言う。いいえ、ありえなくない、僕も数か月前まで審査委員だったのだからとここまで話すと「そんなことはできない」と言う。そんなことをちゃんとやらないと当然のごとくに制度は破綻する。やはり負担のない行き過ぎた福祉は行きつくべきところに行きついてしまう。
  • 2011/8/15 9:03
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 きのうはタイ人の親友ワンチャイ医師と彼のクリニックのマネージャーとで食事をした。
そしてさんざんおもちゃにされた。僕は以前からタイ語の辛いを表すペッという発音とあひるを表すペットという発音をうまく区別することができない。このマネージャーという女性、僕と会うたびに「ドクターコバヤシ、ほら言ってみて、ペッとペッの違い」と責める。僕が一生懸命発音しているのに、ボスである親友の方を向き、「ほら先生、全然できないわよ、どうして日本人って発音できないの?」と来る。てやんでえ、タイ人だってさ行とた行の発音の区別できないじゃんて思うのだが、責められているのでうまく切り返せない。とうとう親友までもがワインが入った勢いで「日本人はさ、舌をつけてああしてこうして発音することができないんだよ」と人をまるで人生の落伍者のように言う。そして「俺が言うとおりに発音してごらんほら、ペッとペッ」と言われて僕が一生懸命ペッと真似をして発音しても二人で笑い転げるばかりで、とうとう最後はマネージヤーの女性に「ドクターコバヤシ、ちがう、もうゴーホーム」なんて言われてしまった。実は僕は鶏肉が大嫌い、アヒルの肉も嫌いだ。今まで日本のタイ料理屋に行くたびに僕は「辛さは控えてね」とか「辛くてもだいじょうぶ」とか注文を付けていた。きっと「アヒルは控えてね」とか「アヒルはだいじょうぶ」とか言っていたのだろう。タイ人スタッフは笑いをこらえていたにちがいない。僕が鶏肉嫌いなことはみんな知っているので騒動にはならなかったが、「鶏肉は嫌いって言うくせに、アヒルは平気ってなんだ?」とか「アヒル料理頼んでいないのに、アヒルすこしにしてくれってなんだよ」とか思われていたにちがいない。ああ恥ずかしい。
  • 2011/8/14 12:00
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きのうはなんだか難しいことを書いてしまった。でもきっと僕がこういう活動をしている背景をわかっていただけたにちがいない。バンコックにいると心が落ち着く。日本にいるといつもだれかに追われているような気がして休まらない。「追われている」というより仕事などの件で「いつでも連絡をとれるような体制にしておかねばならないという強迫観念にとらわれている」というべきだろう。バンコックにいるときは携帯電話は二つ持っている。ひとつはタイ専用の携帯、もうひとつはいつも日本で使っている携帯だ。タイ専用の携帯電話機は中のシムカードを入れ替えるとフィリピンでもどこでも使え、持っていると便利だ。それに安い。ただフィリピンは携帯電話の料金が高く、みな電話で話さずにテキストメールという文字数が限定された安いメールでやりとりしているが。日本で使っているいつもの携帯電話を使うメリットは僕にはまったくない、何しろ海外ローミングは値段がばか高い。ただし僕を探している人にとっては便利、この上ない。地球のはてまで逃げてもピツポッパンですぐにつかまえられる。朝早く起きていつも泊まっているコンドミニアムの24階の部屋の大きな窓から日の昇り始めたバンコックを見渡すとなぜかほっとする。
本当はきのう書いたような理由がなければ貿易会社に入って海外で働くというのが夢だった。
きのう、おもしろいものを見た。病院の帰り、久しぶりにBTSのサイアム駅で降りて隣のナショナル スタジアム駅にくっついた東急までサイアムスクゥエアという地域を歩いてみた。あのあたり、学生の多い繁華街なのだが、物乞いのメッカでもあるらしい。たまたまきのうは母の日とやらでタイは休日、すごい人出だったが、数メートルおきに物乞いの人がいる。膝から下がない人、目の見えない人、ルークトゥンやモーラムを歌う人、ソーを演奏する人、こども・・・次に目に入ったのが犬だ。四角い座布団かなにかの上に器用に犬が横になって寝ている。そしてその前にお金を入れてもらうためのコップがおいてある。好奇心で近づいていっても犬は身じろぎもせずに寝ている。あまりの光景に近接で写真を撮ったがそれでも犬は起きない。そしてコップを見るとなんと人間のベテランの物貰いの前に置かれたコップの中身よりはるかに多いコインが入っている。さらによく見るとすぐ近くにこぎれいな黒のバックが置いてある。どこかで見張っているこの犬の主人は相当に頭のいい奴にちがいない。なんだか見ていて楽しくなった。
 そうそう、忘れないうちに書いておきたい。2週間ほど前、卵巣嚢腫だというカンボジア人の若い女性から電話があったことは以前に書いたけどあの続きだ。まだ26歳の未婚の女性に開腹手術を勧めるとは某病院の担当医はいったいどういう了見だったのだろう? 内視鏡手術なら某大学病院を紹介するが、そこでは2年待ちと言われたという。この子はタイのサケオだったかカオイダンだったか忘れたが、難民キャンプで生まれた子だが、生後すぐに一家で日本に受け入れられてやってきただめ、肌の色こそ浅黒いが日本語は母国語同様だ。だから日本語がわからないのでこうなっちゃったということではない。しかも現在医療関係の仕事についていて少なくても一般の普通の人よりは医学用語などについてよく知っている。卵巣嚢腫はチョコレートのう胞と言われたというので、これが事実なら良性腫瘍ということになる。たしかチョコレートのう胞というのは卵巣に発生した子宮内膜症だと記憶している。生理のたびに卵巣にある子宮内膜でも出血が起こり、それがたまったのがチョコレートのう胞のはずだ。開腹手術すると麻酔などにより、特殊体質でもあれば命の危険に陥ることもないわけではない。麻酔剤による肝機能障害だってある。さらに腹膜と臓器の癒着による癒着性の腸閉塞はずっと後までいつ発生してもおかしくはないし、何より美容上の問題が残る。だからこそ僕ら、外科医は「薬で治るものはまずは薬で。外科学的治療は最後の手段です」と厳しく教えられ、メスを握るのは最後の手段と訓練されてきた。今回、手術のための入院の予約をしなければいけないというところまで追い込まれて彼女が僕にSOSを発してきたのは当の本人も本当にこれでいいのだろうかと不安に思ったからにちがいない。なかなか賢い子だ。なにしろ両親の病気も来日以来24年間、僕が診ているし、いつも本人が言うとおり、僕は彼女にとって日本人の父親のような存在なので電話しやすかったのだろう。僕はすぐに近くで開業している信頼できる婦人科の専門医に相談してみた。すると「腹からのう胞を刺して吸引することもできるしさぁ、でなんで開腹するの?」と逆に質問されてしまった。チョコレートのう胞は多胞性のこともあり、吸いきれないときもあるけどさ・・と言いながらも彼は穿刺をしてくれた。すぐに彼女から電話があって「先生、350CCも抜けました。おなかの痛みもなくなってよかったあ」と話してくれた。そりゃ10センチ×10センチのしこりがなくなればおなかも中も楽だろう。けっきょく若い女性医師に開腹手術を勧められるまま、入院直前まで行った理由がやっぱりわからない。患者であるこのカンボジア人女性にもわからない、担当医に何か言われたが理解できなかったと言っていた。わからないからこそ僕に連絡してきたのだろうが・・まさかとは思うが若い医師が経験のために開腹手術してみたかった・・なんてことは絶対にないと思いたい。
  • 2011/8/13 10:00
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 母は一か月も栗山の家にいて僕を放さないという祖父と祖母と僕が思い込んでいた祖母チノを説得してくれた。母と僕を乗せた汽車が苫小牧に向かって栗山の停車場を出るとき、母と僕は席にすわり、窓をあけて祖母と親戚のおばさんの顔を見た。列車の汽笛で母は深々と一礼し、祖母チノは僕の手を握って離そうとせず、ゆっくり動き出した汽車に合わせるように大きな声で僕の名前を呼びながらホームを走った。チノという女性は本当の孫ではないのに本当にかわいがってくれたし、叱ってもくれた。やはり祖母にちがいない。こうして東京に出てくるにあたり、母は祖父、祖母とひとつの約束をしていた。夏休み、冬休みは僕を栗山に返すということである。だから僕は祖父が亡くなる大学1年までずっと東京と栗山を往復していた。東京では母が必死に働き、僕は昼間、学から帰ると母の実家で母の帰りを待つという生活をしていた。こどもにとってはつらい生活だったが、それでも学べることはあった。僕が母といっしょのときと僕が北海道から出てきた祖父といっしょのときではデパートの店員の態度がちがうこと、そして東京の生活と栗山に戻った時の生活では僕に対する人の態度がまったくちがうことだ。人の態度なんてこんなものである。
そういう態度は人間としてとってはならないということを学んだ。
 父は相変わらず愛人らしい女といっしょにいて月に一回ぐらい現れた。小学校4年のとき、家といっても四畳半とちょっとのところに帰ったら見たこともない幼稚園ぐらいのこどもがいた。母は友達のこどもを預かったと僕に説明したが、直感的に父と関係があるのだなと思った。父の愛人がこどもを産むので上のこどもを預かったのだ。その女性はけっきょく父のこどもを3人産んだ。僕から見ると母のちがう兄弟というわけだが、その上に預かったその子がいる。その子は父とはちがう別の男性のこどもなのだが、彼とは今でも年賀状のやりとりをする間柄だ。父の乱行は女だけではなかった。祖父のまねをして商売をしようとするのだが、お人好しで祖父ほど厳しく商売に臨まない、しかも虚言癖があり、何をしていたのかは僕にもわからない。僕のころは戦後のベビーブームで私立中学校が公立よりもよくなってきた時代だった。僕も私立中学を受験しようと今はない日本進学教室というところに日曜のたびに通った。今では考えられないが、当時通っていた公立の小学校では私学の面接試験の模擬試験などやっていた。当時の担任の先生に「君のお父さんの仕事は何ですか?」と尋ねられた。僕は母から聞いていた通りに話した。するとその女性教諭が怒り出し、君はうそつきだと僕に言った。母はいろいろなメンツを考え、僕に話したこととはちがうストーリーを担任に話していたのだろう。これについては母を責めることは一切言わなかった。担任は恨んだ。僕が嘘を言ったと決めつけたこと、それをクラスのみんなの前で言ったこと、世の中には言いたくても言えないことがあるということにも気がつかなかったことだ。だから今、僕は患者がたとえ嘘かなと思うことを言っても責めないし、決めつけない。たとえそれが本当に嘘だとしても嘘を口から話さざるをえないこども、患者の気持ちとその背景に気がついてあげなくてはならない。まだまだあるが、この先生は反面教師としてりっぱな先生だったわけだ。そんなこんなで僕の中学受験はみごとに失敗した。高校受験も失敗したが、共通点があって試験の当日になると突然40度近い熱が出てふらふらになってしまう。過緊張だったのか母の期待にそおうとしたのかはわからないが母の親戚一同からはストレスに弱いこどもという印象を持たれたにちがいない。
 中学に通い始めた1年のとき、ある日、母が友人と建てた大森のアパートに帰ると母が泣いていた。父が詐欺を働いてその債権者という人たちが後で来るという。やってきた連中はいかにも日陰の生活をしていますという連中でアパートを取り上げると母を脅かし、僕はそれを同じ部屋の中で聞いていた。彼らが帰った時に母にいっしょに生活していないのに取られるわけがない、父は早く離婚するようにと母にせっついた。早くおとなになって母の相談相手になりたかった。けっきょく母が離婚したのは僕が高校生のころだった。母なりにあんな父親でも愛していたのだと後になって確信したことがあって母にはかわいそうなことを言ったと思った。実はこの債権者という連中こそが父をだましていた連中だったのだが、父は人だけは良かったようでだまされて最後は自分が詐欺師にされてしまうということを繰り返した。最後に詐欺で室蘭の刑務所から桜のマークの付いた封書が僕に送られてきたときは僕はもう大和市立病院の外科の医長だった。祖父が亡くなり、保釈金の要求なども祖父にかわって僕に来るようになったが、僕は心を鬼にしてすべて断った。思えば中学、高校のころは暗いこどもだった。クラスメートから見たら勉強ばかりしているいやな奴だったにちがいない。父が詐欺を働いて刑務所に入っているなど人に言えるわけもなく、将来北海道のあの父親をいじめて卑屈にさせたあそこにも戻りたくないと思っていたので頼るのは自分だけ。自分の力で生きていかねばならない。必死で勉強した。僕がいやなのは僕の経歴、高校から慶応というのを見てきっとお坊ちゃんで育ったのだろうなと思われることだった。みんな祖父が授業料を出してくれた。父のことがあり、一流の会社を受けに行ってもきっと家族を調べられたら合格できないと思い、弁護士か医者になろうと決心したのが高校2年のころ。本当に必死で勉強した。弁護士は大学を卒業してもなれるとは限らない、医者なら医学部を卒業したらなれる。医者に絞って勉強をしたがもとから文科系の頭、つらかった。僕が医者になろうと思ったのはこんな理由で人を助けたいなんて崇高なものはみじんもなかった。ただ自分が助かりたかっただけ。高校3年の秋ごろ、北海道の祖父が突然愛人のひとりといっしょに上京してきた。僕に会いたいという。新橋のホテルの一室で会ったとき、開口一番、「手紙で知ったが医者になることは絶対に許さないし、金も出さない、経済学部に行き、卒業したら栗山に戻って自分の跡を継ぐように、そのためにお前を養子にしたい、おっかさんにはお前を養育した費用として二千万を渡す」こう言われた。まだ高校3年生、血が頭に上った。「もしそう思うならどうして今までほおっておいたのか、生活に苦しいことも知っていたはずなのに。あなたが今まで作り上げてきたものは僕の手ですべてぶち壊してやる」と叫んだ。皆が怖がるほどのワンマンだった祖父だが、そのとき静かに笑いながらこう言った。「お前に壊されるなら本望だなや。」そして母のほうを向いてこう続けた。「お前の父親は梶原重之助というんだろう?」。嫁入りするずっと前に父親は亡くなっていたので母はびっくりして「おとうさん、どうして父の名前を知っているのですか?」と尋ねた。「実は俺が日の出の勢いで商売を始めたころ、神戸から来たという商人に損をさせられたことがあった。それが梶原重之助でお前が嫁いでくるときにすぐに気がついた。今まで黙っていたが米幸には俺とお前の父親の血が流れている。商売人として絶対に成功するだろうから栗山によこしてくれ」、そういう祖父の言葉に冷静さを取り戻したが、けっきょくけんか別れしたように思う。祖父は帰って行ったがこれが永久の別れになった。半年後、札幌の斗南病院で胃がんで亡くなった。僕が呼ばれてかけつけたときにはもう意識がなかった。きっと自分の体調の悪さに気がついて必死の思いで東京までやってきたのだろう。そういう年寄りに僕はかわいそうなことをしてしまった。今でも胸がめつけられる。僕は首尾よく医者になることができた。もう自分の過去も隠す必要がない。それでも世の中には自分がしたことではなく、ただそこに生まれたというだけでいわれなき差別を受けている人たちがいる、日本人でも外国人でも。それに目をつぶってしまうことは僕にとっては今まで生きてきた自分を否定することなのです。だから僕は確信犯だ。いつだったか娘と息子にこの話を長々と話した。すると娘が一言、「お父さん、それって自慢?」と言った。
 祖父が亡くなるとき、祖父の事業を引き継ぐ連中から病室で陰湿ないやがらせを受けた。お前も金がほしくてきたならこれでも持って帰れと汚物をぶつけられたこともあった。危篤になってから亡くなるまでの一週間、あまりの精神的つらさに耐えかねて一度東京の戻ってくるほどだった。葬式ではお焼香の順位をずっと後に下げられ、すれちがった祖父の妹には肘鉄を食らわされた。新聞ではその存在を無視された。いま、ごくたまに栗山に戻ると夕張炭鉱は閉山となってあの一帯過疎の町となり、昼間に人を見つけるのもむずかしい。これでは祖父の残した酒造会社も従業員の確保さえむずかしいにちがいない。つい先日1時間だけ栗山に寄った時に親しい親戚の目上のおじが言った。「あんた、ここに戻ってこなくてほんとによかったさ、いまは大変だよ」。そうかもしれない。
  • 2011/8/12 16:37
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 しかしどんなに複雑な人間関係があろうと曲がっていったのは本人のせいだというのが僕の考えだ。仕事ができないのに女遊びだけは祖父に負けず劣らずだったらしい。親戚にいじめられて屈折していく父を見て女中頭のおばばという女性が身を挺して家の中で守ってくれた。中学生になったときにおばばの亡くなったことを知り、室蘭の本輪西に住んでいたおばばの息子さんの家を訪ねたとき、息子さんが「母さんは実の子供の俺より、人のこどものあんたの父さんのほうがかわいかったんだもんねえ」と言ってくれたことがあった。ほんとにその通りだった。僕もおばばにすごくかわいがってもらった。
 父は小樽の国立大学に進学した。数学が一題もできなかったが、祖父の力で入れてもらったと聞いたことがあるが、ひょっとしたら昔の田舎の国立大学ってこんなこともあったのかもしれない。父は小樽では祖父の姉が嫁いでいた池田製菓というお菓子屋に下宿していた。池田製菓のバンビキャラメルといえば僕の世代、北海道で育った人なら古谷のスキーキャラメルと同じくらいよく知っている。その池田製菓に神戸から疎開してきた僕の母が働いていた。どういう出会いか知らないが、二人は昭和23年に結婚し24年に僕が生まれた。僕が生まれても父の女遊びはやまなかったらしい。亡くなった母に聞くと冬の夜、帰ってこない自分の亭主を探して来いと舅、姑に言われ、やっと歩けるようになった僕の手を引いて雪の降りしきる町の飲み屋を一軒一軒訪ねたそうだ。たぶん母はまだ23歳にならなかったころだろう。父が帰ってきて母と言い争い、母を殴ったことは鮮明に覚えている。母は泣いて隣の部屋に逃げ、父は僕の手をひっぱり「米幸、いっしょに寝よう」と言ったが、父のその手を無言で振り払い、隣の部屋の母のところに走って行ったら母がしっかり抱きしめてくれた。生前、母にこの話をしたら「ほんとに覚えているの? あんた、まだ2歳になっていなかったころよ」と言われた。だから女性にふられても腹がたっても生まれて62年、女性を殴ったことはない。この話を娘が高校生のころだったか話したら「うそつき、お父さん、小学校のころによくぶったじゃん」と言われた。よく考えてみたらたしかに中学受験のころ、娘の勉強を見ていてそういうこともままあった。娘だけは例外であった。あれは愛のむちと言っても本人は納得しないだろう。その娘もことしから大和市の隣の市立病院の研修医をしている。浪人も留年もしなかったのはいいけど、まだ24歳の社会経験で医者としてやっていけるのだろうか。いつも心配している。
 父はあるとき急に僕の目の前からいなくなった。あとから知ったけど愛人といっしょに東京に逃げたのだ。母の姿もあるとき見えなくなった。夫が愛人といなくなり、大家族で住んでいる栗山にいられなくなり、東京に出てきていた実家を頼って出て行ったのだ。後から聞いた話では母方の祖母に「あそこに置いておけば米幸はお金で困ることはない。だから置いてこい。いっしょに連れてくることは許さない」と強く念押しされたということだ。母が1月に亡くなって遺品を整理していたら母と栗山の親族との手紙のやりとりがたくさん出てきた。その中に「こどもがお母さん、どこに行ったの?と尋ねて困ります。こんな答えられない。だからお母さんは病気で入院していて今は会えないけど、ボクもちゃんとごはん食べて元気にしていないと入院してしまうし、お母さんが悲しむよ」って話しているという手紙があった。こどもとは僕のことだ。それから小学校3年になるときに母が迎えにくるときまで僕はひとりで栗山にいた。祖父や祖母が僕の教育のためにつけてくれた教育係を兼ねた女中さんと月に一回、東京の母にあてて葉書を書いた。この葉書も母の遺品の中から出てきた。大切に持っていてくれたにちがいない。だから僕は恥ずかしいが涙もろい。
  • 2011/8/12 16:36
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