AMDA国際医療情報センター
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プロフィール

小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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平成23年8月12日金曜 3

平成23年8月12日金曜 3

 母は一か月も栗山の家にいて僕を放さないという祖父と祖母と僕が思い込んでいた祖母チノを説得してくれた。母と僕を乗せた汽車が苫小牧に向かって栗山の停車場を出るとき、母と僕は席にすわり、窓をあけて祖母と親戚のおばさんの顔を見た。列車の汽笛で母は深々と一礼し、祖母チノは僕の手を握って離そうとせず、ゆっくり動き出した汽車に合わせるように大きな声で僕の名前を呼びながらホームを走った。チノという女性は本当の孫ではないのに本当にかわいがってくれたし、叱ってもくれた。やはり祖母にちがいない。こうして東京に出てくるにあたり、母は祖父、祖母とひとつの約束をしていた。夏休み、冬休みは僕を栗山に返すということである。だから僕は祖父が亡くなる大学1年までずっと東京と栗山を往復していた。東京では母が必死に働き、僕は昼間、学から帰ると母の実家で母の帰りを待つという生活をしていた。こどもにとってはつらい生活だったが、それでも学べることはあった。僕が母といっしょのときと僕が北海道から出てきた祖父といっしょのときではデパートの店員の態度がちがうこと、そして東京の生活と栗山に戻った時の生活では僕に対する人の態度がまったくちがうことだ。人の態度なんてこんなものである。
そういう態度は人間としてとってはならないということを学んだ。
 父は相変わらず愛人らしい女といっしょにいて月に一回ぐらい現れた。小学校4年のとき、家といっても四畳半とちょっとのところに帰ったら見たこともない幼稚園ぐらいのこどもがいた。母は友達のこどもを預かったと僕に説明したが、直感的に父と関係があるのだなと思った。父の愛人がこどもを産むので上のこどもを預かったのだ。その女性はけっきょく父のこどもを3人産んだ。僕から見ると母のちがう兄弟というわけだが、その上に預かったその子がいる。その子は父とはちがう別の男性のこどもなのだが、彼とは今でも年賀状のやりとりをする間柄だ。父の乱行は女だけではなかった。祖父のまねをして商売をしようとするのだが、お人好しで祖父ほど厳しく商売に臨まない、しかも虚言癖があり、何をしていたのかは僕にもわからない。僕のころは戦後のベビーブームで私立中学校が公立よりもよくなってきた時代だった。僕も私立中学を受験しようと今はない日本進学教室というところに日曜のたびに通った。今では考えられないが、当時通っていた公立の小学校では私学の面接試験の模擬試験などやっていた。当時の担任の先生に「君のお父さんの仕事は何ですか?」と尋ねられた。僕は母から聞いていた通りに話した。するとその女性教諭が怒り出し、君はうそつきだと僕に言った。母はいろいろなメンツを考え、僕に話したこととはちがうストーリーを担任に話していたのだろう。これについては母を責めることは一切言わなかった。担任は恨んだ。僕が嘘を言ったと決めつけたこと、それをクラスのみんなの前で言ったこと、世の中には言いたくても言えないことがあるということにも気がつかなかったことだ。だから今、僕は患者がたとえ嘘かなと思うことを言っても責めないし、決めつけない。たとえそれが本当に嘘だとしても嘘を口から話さざるをえないこども、患者の気持ちとその背景に気がついてあげなくてはならない。まだまだあるが、この先生は反面教師としてりっぱな先生だったわけだ。そんなこんなで僕の中学受験はみごとに失敗した。高校受験も失敗したが、共通点があって試験の当日になると突然40度近い熱が出てふらふらになってしまう。過緊張だったのか母の期待にそおうとしたのかはわからないが母の親戚一同からはストレスに弱いこどもという印象を持たれたにちがいない。
 中学に通い始めた1年のとき、ある日、母が友人と建てた大森のアパートに帰ると母が泣いていた。父が詐欺を働いてその債権者という人たちが後で来るという。やってきた連中はいかにも日陰の生活をしていますという連中でアパートを取り上げると母を脅かし、僕はそれを同じ部屋の中で聞いていた。彼らが帰った時に母にいっしょに生活していないのに取られるわけがない、父は早く離婚するようにと母にせっついた。早くおとなになって母の相談相手になりたかった。けっきょく母が離婚したのは僕が高校生のころだった。母なりにあんな父親でも愛していたのだと後になって確信したことがあって母にはかわいそうなことを言ったと思った。実はこの債権者という連中こそが父をだましていた連中だったのだが、父は人だけは良かったようでだまされて最後は自分が詐欺師にされてしまうということを繰り返した。最後に詐欺で室蘭の刑務所から桜のマークの付いた封書が僕に送られてきたときは僕はもう大和市立病院の外科の医長だった。祖父が亡くなり、保釈金の要求なども祖父にかわって僕に来るようになったが、僕は心を鬼にしてすべて断った。思えば中学、高校のころは暗いこどもだった。クラスメートから見たら勉強ばかりしているいやな奴だったにちがいない。父が詐欺を働いて刑務所に入っているなど人に言えるわけもなく、将来北海道のあの父親をいじめて卑屈にさせたあそこにも戻りたくないと思っていたので頼るのは自分だけ。自分の力で生きていかねばならない。必死で勉強した。僕がいやなのは僕の経歴、高校から慶応というのを見てきっとお坊ちゃんで育ったのだろうなと思われることだった。みんな祖父が授業料を出してくれた。父のことがあり、一流の会社を受けに行ってもきっと家族を調べられたら合格できないと思い、弁護士か医者になろうと決心したのが高校2年のころ。本当に必死で勉強した。弁護士は大学を卒業してもなれるとは限らない、医者なら医学部を卒業したらなれる。医者に絞って勉強をしたがもとから文科系の頭、つらかった。僕が医者になろうと思ったのはこんな理由で人を助けたいなんて崇高なものはみじんもなかった。ただ自分が助かりたかっただけ。高校3年の秋ごろ、北海道の祖父が突然愛人のひとりといっしょに上京してきた。僕に会いたいという。新橋のホテルの一室で会ったとき、開口一番、「手紙で知ったが医者になることは絶対に許さないし、金も出さない、経済学部に行き、卒業したら栗山に戻って自分の跡を継ぐように、そのためにお前を養子にしたい、おっかさんにはお前を養育した費用として二千万を渡す」こう言われた。まだ高校3年生、血が頭に上った。「もしそう思うならどうして今までほおっておいたのか、生活に苦しいことも知っていたはずなのに。あなたが今まで作り上げてきたものは僕の手ですべてぶち壊してやる」と叫んだ。皆が怖がるほどのワンマンだった祖父だが、そのとき静かに笑いながらこう言った。「お前に壊されるなら本望だなや。」そして母のほうを向いてこう続けた。「お前の父親は梶原重之助というんだろう?」。嫁入りするずっと前に父親は亡くなっていたので母はびっくりして「おとうさん、どうして父の名前を知っているのですか?」と尋ねた。「実は俺が日の出の勢いで商売を始めたころ、神戸から来たという商人に損をさせられたことがあった。それが梶原重之助でお前が嫁いでくるときにすぐに気がついた。今まで黙っていたが米幸には俺とお前の父親の血が流れている。商売人として絶対に成功するだろうから栗山によこしてくれ」、そういう祖父の言葉に冷静さを取り戻したが、けっきょくけんか別れしたように思う。祖父は帰って行ったがこれが永久の別れになった。半年後、札幌の斗南病院で胃がんで亡くなった。僕が呼ばれてかけつけたときにはもう意識がなかった。きっと自分の体調の悪さに気がついて必死の思いで東京までやってきたのだろう。そういう年寄りに僕はかわいそうなことをしてしまった。今でも胸がめつけられる。僕は首尾よく医者になることができた。もう自分の過去も隠す必要がない。それでも世の中には自分がしたことではなく、ただそこに生まれたというだけでいわれなき差別を受けている人たちがいる、日本人でも外国人でも。それに目をつぶってしまうことは僕にとっては今まで生きてきた自分を否定することなのです。だから僕は確信犯だ。いつだったか娘と息子にこの話を長々と話した。すると娘が一言、「お父さん、それって自慢?」と言った。
 祖父が亡くなるとき、祖父の事業を引き継ぐ連中から病室で陰湿ないやがらせを受けた。お前も金がほしくてきたならこれでも持って帰れと汚物をぶつけられたこともあった。危篤になってから亡くなるまでの一週間、あまりの精神的つらさに耐えかねて一度東京の戻ってくるほどだった。葬式ではお焼香の順位をずっと後に下げられ、すれちがった祖父の妹には肘鉄を食らわされた。新聞ではその存在を無視された。いま、ごくたまに栗山に戻ると夕張炭鉱は閉山となってあの一帯過疎の町となり、昼間に人を見つけるのもむずかしい。これでは祖父の残した酒造会社も従業員の確保さえむずかしいにちがいない。つい先日1時間だけ栗山に寄った時に親しい親戚の目上のおじが言った。「あんた、ここに戻ってこなくてほんとによかったさ、いまは大変だよ」。そうかもしれない。
  • 2011/8/12 16:37
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