AMDA国際医療情報センター
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プロフィール

小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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平成23年8月12日金曜 2

平成23年8月12日金曜 2

 しかしどんなに複雑な人間関係があろうと曲がっていったのは本人のせいだというのが僕の考えだ。仕事ができないのに女遊びだけは祖父に負けず劣らずだったらしい。親戚にいじめられて屈折していく父を見て女中頭のおばばという女性が身を挺して家の中で守ってくれた。中学生になったときにおばばの亡くなったことを知り、室蘭の本輪西に住んでいたおばばの息子さんの家を訪ねたとき、息子さんが「母さんは実の子供の俺より、人のこどものあんたの父さんのほうがかわいかったんだもんねえ」と言ってくれたことがあった。ほんとにその通りだった。僕もおばばにすごくかわいがってもらった。
 父は小樽の国立大学に進学した。数学が一題もできなかったが、祖父の力で入れてもらったと聞いたことがあるが、ひょっとしたら昔の田舎の国立大学ってこんなこともあったのかもしれない。父は小樽では祖父の姉が嫁いでいた池田製菓というお菓子屋に下宿していた。池田製菓のバンビキャラメルといえば僕の世代、北海道で育った人なら古谷のスキーキャラメルと同じくらいよく知っている。その池田製菓に神戸から疎開してきた僕の母が働いていた。どういう出会いか知らないが、二人は昭和23年に結婚し24年に僕が生まれた。僕が生まれても父の女遊びはやまなかったらしい。亡くなった母に聞くと冬の夜、帰ってこない自分の亭主を探して来いと舅、姑に言われ、やっと歩けるようになった僕の手を引いて雪の降りしきる町の飲み屋を一軒一軒訪ねたそうだ。たぶん母はまだ23歳にならなかったころだろう。父が帰ってきて母と言い争い、母を殴ったことは鮮明に覚えている。母は泣いて隣の部屋に逃げ、父は僕の手をひっぱり「米幸、いっしょに寝よう」と言ったが、父のその手を無言で振り払い、隣の部屋の母のところに走って行ったら母がしっかり抱きしめてくれた。生前、母にこの話をしたら「ほんとに覚えているの? あんた、まだ2歳になっていなかったころよ」と言われた。だから女性にふられても腹がたっても生まれて62年、女性を殴ったことはない。この話を娘が高校生のころだったか話したら「うそつき、お父さん、小学校のころによくぶったじゃん」と言われた。よく考えてみたらたしかに中学受験のころ、娘の勉強を見ていてそういうこともままあった。娘だけは例外であった。あれは愛のむちと言っても本人は納得しないだろう。その娘もことしから大和市の隣の市立病院の研修医をしている。浪人も留年もしなかったのはいいけど、まだ24歳の社会経験で医者としてやっていけるのだろうか。いつも心配している。
 父はあるとき急に僕の目の前からいなくなった。あとから知ったけど愛人といっしょに東京に逃げたのだ。母の姿もあるとき見えなくなった。夫が愛人といなくなり、大家族で住んでいる栗山にいられなくなり、東京に出てきていた実家を頼って出て行ったのだ。後から聞いた話では母方の祖母に「あそこに置いておけば米幸はお金で困ることはない。だから置いてこい。いっしょに連れてくることは許さない」と強く念押しされたということだ。母が1月に亡くなって遺品を整理していたら母と栗山の親族との手紙のやりとりがたくさん出てきた。その中に「こどもがお母さん、どこに行ったの?と尋ねて困ります。こんな答えられない。だからお母さんは病気で入院していて今は会えないけど、ボクもちゃんとごはん食べて元気にしていないと入院してしまうし、お母さんが悲しむよ」って話しているという手紙があった。こどもとは僕のことだ。それから小学校3年になるときに母が迎えにくるときまで僕はひとりで栗山にいた。祖父や祖母が僕の教育のためにつけてくれた教育係を兼ねた女中さんと月に一回、東京の母にあてて葉書を書いた。この葉書も母の遺品の中から出てきた。大切に持っていてくれたにちがいない。だから僕は恥ずかしいが涙もろい。
  • 2011/8/12 16:36
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