AMDA国際医療情報センター
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小林米幸: AMDA国際医療情報センター理事長

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平成23年9月18日日曜

平成23年9月18日日曜

数日前に産経新聞関連の医療雑誌の編集者から突然電話をいただいた。内容は僕に任せるので僕のクリニックでの外国人の診療についてのエッセイを書いてくれという依頼だった。この「お任」については苦い思い出がある。知り合いの編集者が出版している眼科雑誌の「目」というコラムにお任せの文章を依頼されたときに、ちょっと粋な文章をと学生時代に当時の恋人と雑踏の中で待ち合わせをしたときのことを瞳というタイトルで切々と描いた。すると文章を送った直後に彼から電話があった。「先生、これは先生のことですか?すばらしい文章とは思いますが、こういう内容は別のところに出されてはいかがでしょう?」と言われてしまい、平凡な文章に書き直しせざるをえなくなってしまった。
小学生のころから作文が苦手だった。それなのに今は文章を書くことが日常的である。まあカルテを書くなんていうのも文章を書くことの一つかもしれない。あれほど文章を書くことが苦手だったのに書けるようになったのは厳しい上司のおかげだと思う。26歳で慶応大学外科学教室の胃のグループに戻ってきたとき、直属の上司が石引先生という助教授と吉野先生という講師だった。お二人とも厳しくとも心根はやさしいのだが、口から出てくる言葉は実に辛辣で若い医師を奈落の底に突き落とすには十分だった。とくに論文の書き方については徹底的に指導された。石引という文字をひっくり返すと「きびしい」となる。そう陰口をたたかれるほどであったが、あのとき、たたかれていたから苦手感もなくなったのだろう。いつのまにか後輩の学会発表や論文のチェックをするようになっていたが、その時のチェックの仕方というのがお二人に自分が指導された通りだった。先輩には感謝しなければいけない。外国人も日本人と同じ地域医療をと開業してからいろいろな書き物を依頼されるようになった。東京新聞の土曜の夕刊のコラムを半年間書いてくれと言われて引き受けたときは一か月前に言われたので連載の始まる前、その一か月間に半分以上書き溜めしておいた。ネタ切れになりそうになったこともあったが、なんとか乗り越えた。そんな僕が最初に外国人医療や日常診療のことに題材をしぼってエッセイを書いて出版したのは15年も前だった。出来上がりを見て編集者は褒めてくれたが僕の予想通り、あまり売れなかった。書けることと読者の心をとらえること、すなわち文章力があるということは別だと思い知った。その後、再びエッセイ集の出版を某雑誌社から持ちかけられたが、50近い短編を書き上げたころに会社が倒産してしまった。出版業界も大変らしい。当時、僕は神奈川県医師会の会報編集委員だった。医師会報の中にちょうどエッセイを掲載するのにぴったりの「随想」というコーナーがあって、あまり会員からの投稿もないので新しい文章と出版のために書き溜めた文章とを織り交ぜて1年に5編ほどのペースで投稿した。昨年の12月だったか、日本医事新報という老舗の雑誌の編集部から突然エッセイの原稿依頼をされた。すごく長い文章ではなかったがどうして僕のところにこういう依頼が来るのかと驚いた。それにしても今やパソコンがあって文章も書きやすい。80年ごろだと記憶しているが、論文を書いて上司に見てもらう。あそことこことこのあたりがだめ、2日後に見てあげるから持ってきなさいと言われると診療や研究が終わって自宅に戻ってから2日間に200ページ近い文章を鉛筆で書かねばならない。これを数回繰り返すと、もはや暗記できてしまう。実にいい時代になったものだ。
  • 2011/9/18 9:00
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